まっすぐな屈折20(最終回)


新規事業の立上げは難しい、という認識が当時のぼくには欠落していた。欠落していたというか、そもそも社会やビジネスを知らなさ過ぎた。会社員とは何をしているのか、よく分からなかった。具体的に指示されたことを実行するだけの作業が簡単であるということも分かっていなかった。でも分からないなりに、みんながやりたがる仕事はあまり価値がなく、誰もやりたがらない仕事には価値があるような気がした。新規事業の立上げと云っても何をするかも決まっていない。そもそも中小企業という限られたリソースの中で、どういうビジネスをやるべきかをゼロから考えることはあまりに最上流の話過ぎて、極端に難易度が高い。もっとも当時のぼくにはそれが難しいことなのだということさえ理解ができていなかった。チームリーダーはいろいろ考えているようだったが、これという答えは簡単に得られなかった。企業側の事情は、現行の既存ビジネスをどう成長させていくかという課題がある一方で、それとは全く異なる新しいビジネスを作りたいのだ。入ってくるお金の流れが太くなり、なおかつ新たな流入経路を建設できるなら、その価値は計り知れない。とはいえ、企画したことの大半は上手くいかないのであって、何十回に一回ほどの割合で、継続してモノになるビジネスが誕生するかも知れない。その試行錯誤を繰り返し行っていくために、駄目だったら捨てられるように期間限定の契約社員でぼくは採用されたということだろう。

いくつかの会社に求人広告を売り、いくつかの会社から新卒採用の媒体作成を請負、いくつかの会社の人事に代わって大学の就職課に訴求する代行を行った。求人用のチラシを作成し、会社説明会を企画し、展示会に出展し、人材紹介を行った。ハローワークが実施する公的職業訓練の委託先でもあり、みなとみらいの専門学校で講師を行った。営業として新規開拓を行い、キャリアコンサルタントとして大勢の人の面談を行い、人材採用コンサルティングの世界に足を踏み入れた。自分たちの新卒者向け就職サイトを作成し、人材会社向けのエージェント媒体の営業に走り回った。

新卒採用にしても中途採用にしても、求人企業はどういう人材が欲しいかについては自覚的だが、働く人にとってその会社は何が魅力なのかについて十分に語れる人が案外少ないことに気が付いた。その会社に代わって求人広告を作成するにしても、採用代行を行うにしても、その会社で働くとどんな良いことがあるのか云えなければ訴求できない。待遇が良いわけでもなくロケーションが良いわけでもなく、仕事のやりがいもあやふやだが、求める人物像だけは熱心に語る。そういう会社には、「ここで働くとどんなメリットがあるのか」を引き出さなければならず、それについては「考えたことがない」と困惑された。2006年・2007年頃は、買い手市場から売り手市場に傾いていくような時代だったが、採用企業の中にはまだまだ自分たちは求職者を選べる立場(買い手市場)であり、企業の魅力などをPRして求職者に選んでもらうような立場ではないはずだと思われている担当者が多かった。意識改革が遅れた会社には採用コンサルティングが必要だったが、採用コンサルティングを売るには意識改革が遅れていることを認識させなければならなかった。

この期間、さまざまな業界の会社に出入りしたし、さまざまな求職者と出会ったので、短期間でいろいろな社会勉強が出来たのは良かった。広尾のPR会社の外国人社長のあらゆる我儘をなんでも「拘り」という言葉に置き換えている秘書の気の毒なほどの献身性に感心し、赤坂の某大手建設会社のまったく営業を行わないのに受注が止まらない仕組みに驚き、某大手メーカーをリストラされた部長の「黒木瞳をCMに使ったのは自分だ」という武勇伝に耳を傾け、音楽CDが配信に代わりつつある時代の中で、まったくCDが売れないから転職を相談しに来たレコード会社の課長や、航空会社で国際線CAをやっていたが一般企業の経理職に代わりたいという相談にのったりした。理系の研究者を目指したがアカデミックポストが空かず、仕方なく今さら就職を希望するポスドク(大学院博士号取得後の研究者)の仕事探しを手伝ったりもした。業界や職種や仕事内容は何でもいいから、とにかく高層ビルの上層階に入った外資系企業で働きたいという若い女性にも出会った。何か条件はありますかと聞くと、「1階にTULLY’Sが入っていること」と明言した。「廊下の絨毯に靴のヒールが沈めばなおさら良い」と付け加えた。IDカードを首に下げて、コーヒー片手に上層階行エレベーターに乗るような仕事を紹介して欲しいということだった。

SEOを得意とするWEBマーケティング会社の入り口に「弊社社長がカリフォルニア州のGoogle本社を訪問した」という写真が飾ってあって、それに何の意味があるのだろうと疑問に思ったし、学習塾運営会社のプロモーションで「個別」以外に何か特徴はないものかと考える会議が延々と続く様子を気の毒に思った。IT系多重下請け構造の中で仕事といえば人材調達を行っているだけなのにリクナビやマイナビの求人には「高い技術力」「最先端技術」「大規模システム開発」・・・云々をやたらアピールするのは詐欺にならないのか疑問に思ったりもした。

毎日山ほど新規開拓の営業電話をかけたし、考え付くことは何でも実行して、やり方を工夫した。怒られることも嫌われることもあったが、慣れと習熟によって話し方が流暢になればなるほど、逆にアポイントは取れなくなるという、ある種営業の本質に早い段階で触れることができた。

半導体メーカーから依頼された求人を作成するときにエクセルを覚え、食品メーカーから依頼された求人作成時にプリンやカフェオレなどの商品画像の使用について著作権を気にし、ハローワーク委託の職業訓練に来ている人に仕事を紹介することが個人情報の二次利用になると知り、曖昧な情報を曖昧なまま運用しても仕事にならないということが分かった。

分からないことは調べるしかなかったし、ないものは作るしかなかった。売れるかどうか分からないけれど、やってみたら予想外に売れてしまい、慌てて契約書を作成しなければならない場面もあった。分からないなりに調べて何とかそれらしいものを用意するという行き当たりばったりの毎日だった。仕事は深夜まで及び、会社の裏から出てすぐ近くのマクドナルド地下1階に入って休憩した。周囲が見えていなかったがなんとなくいつもと異なる雰囲気を感じて周囲を見ると、まわりは若い女性ばかりで部外者はぼくだけだった。金髪でつけまつげ、ミニスカートで長いネイルの顔の黒いギャル達が集会を開いており、今さら席を移動するのもなんだかなので、ぼくはその集会にそのまま参加する格好になった。リーダーらしい人が集会を仕切っており、「今日の議題は、〇〇の声が小さいことについて!」と大声で発表した。なにそれ?と思って、顔を上げたが、参加者は厳粛な雰囲気で受け止めており、誰々の声は小さくない、いや小さい、のような激しい討論がはじまった。渋谷のセンター街とはそういうものなのだ。

それでも新規ビジネスの立上げには至らず、契約期間の1年は更新してもらったが、2度目の更新はできなかった。新しい収益の柱が立ち上げられなければ、それまでということだった。最後の方に取り組んでいたのは、人材紹介会社向けのエージェント媒体を売るということであったが、その媒体は登録者が少なすぎてちっとも売れなかった。エージェント媒体は人材紹介会社が仕入れ(企業に紹介できる人材)を増やすために使うものであり、登録者を獲得できないエージェント媒体にはお金を払う意味がない。売上上昇は登録者の増加にかかっているのであり、どうやって登録者を増やせばよいのか。そこでぼくが思いついたのは、履歴書・職務経歴書の自動作成サービス(無料)だった。当時は手書きからWord/Excelに移行するタイミングでもあり、一定の情報を入力すればきれいな罫線の書式に整理された書類が出来上がり、一度作成すれば何度でも繰り返し使うことができる。そして、履歴書・職務経歴書を作成するときに入力する情報と転職サイトに登録するときに入力する情報はほぼ同じであり、このサービスの利用は無料であるが、某エージェント媒体の登録を含意するという注意書きを、誰も読まない利用規約に書き込めばよい。さらに云えば、はじめて履歴書・職務経歴書を作成する人は若くて転職回数が少ない可能性が高く、それは市場価値が高いことを意味する。エージェント媒体を利用する人材紹介会社は「売れやすい」人材の獲得を望むのは言うまでもない。そういうわけで、登録者は一気に増えたのだけれど、ぼくの契約期間はそこで終了となった。試用期間を含めて、2年4ヵ月だった。

この渋谷の会社ではぼくに親切にしてくれた女性が二人いて、ぼくの知らないことをなんでも教えてくれた。一人は女子大学(の理系)を卒業した独身の方で、一人はミュージカル女優をかつては目指したバツイチの子連れの方だった。「どうして結婚しないのか」とよく聞かれたが、「考えたこともない」と答えるしかなかった。14年も遅れたスタートで社会に出たので早く仕事を覚えなければならないということと、東京の激流の中で何とか踏みとどまり、新潟に逃げ帰ったりできないという気持ちだった。自分が36歳・37歳になっていることにさえ気が付いていなかった。年を取ったことが理由かも知れないけれど、だんだんと賑やかなところが苦手になっていった。大騒ぎする飲み会も嫌いだったし、渋谷のセンター街も嫌だった。他の人間はノイズに見えた。でも仕事があるので渋谷には通ったが、賃貸契約更新のタイミングで郊外(聖蹟桜ヶ丘)に引っ越した。もっとも聖蹟桜ヶ丘も、金曜日の夜になると学生の集団が「帝京大学、万歳!」などと大騒ぎしているので、その集団をかき分けて進む必要はあった。2年4ヵ月で契約期間は終了したので次の仕事を探さなければならなかったが、都心の会社に通勤したいとは思わなかった。仕事の内容よりも家から近いところで探したが、大学生のときの苦労と対照的に、実にあっけなく簡単に次は決まった。


それから15年が経った頃、慶應ペンクラブの何人かに再会する機会があった。2022年の冬(年末)の新宿だった。独立起業している人もいれば、大手金融や外資監査法人で活躍されている人もいた。ペンクラブの一部の人とは何度か食事に行ったり、BABYMETALのライブに行ったりしたこともあったが、大学のときの人と会うことは基本的にほとんどなかった。今は国立に住んでいること、毎日一橋大学の前を散歩していること、大学卒業後二つ目の会社で今も働いていること、北米出張した際にミシガン州のroute 52で追突事故に遭ったこと、その際手に持っていた緑色のプリングルスが車内に散らばったこと、2011年に精巣がんになったこと、2021年の6月に結婚したが、妻が実家に帰って戻ってこないので2022年1月に離婚したことなどを報告した。

その中にいた女性は「目黒不動に行ったことを覚えている?」と訊いた。もちろん覚えていたし、誰もいない境内で龍の口から吐水される(独鈷の滝と思われる)真夜中の水の音はすぐに思い出すことができた。この女性とは14歳くらいの年齢差を利用して、聖心女子大学の学園祭(聖心祭)で高校生向け入試相談会に、「高校生の娘とその父親」という体でもぐり込んだことがある。「うちの娘が聖心を第一志望で考えていまして」のようなことを言って、聖心女子大学の特色について説明を受けた。彼女は19歳か20歳だったので高校生に見えたかも知れないが、ぼくがその父親には見えるはずないと思った。入試相談会の担当者の教員はぼくたちが父娘だという話を信じたのか疑っていたのか分からないが、とても熱心に大学の紹介をしてくれた。少人数でリベラル・アーツ教育を重視しており、2年時より学科に分かれて専門性を高めます・・・的な説明をいただき、「娘さん、ぜひ受けてください」と聖心女子大学のノベルティグッズをもらってしまった。「聖心に入るにはもっと勉強を頑張らなきゃだな」のようなことを適当に言いながら急いでそこから逃げ出した。大学生っぽい悪ふざけといえば悪ふざけなのだが、そういうひとつひとつの場面の中にいても、当時のぼくは知っていた。大学卒業後に大きな差が付くことを。ひとつの場面を切り取れば、同じ大学生という立場であり、年齢的にはひと回りちょっと年上、学年という意味ではほぼ同学年だったのは間違いない。でも社会に出ればふたりの間には大きな差が付く。ぼくは大学卒業後に14年の差を埋めるために必死になって頑張るつもりでいたが、それでも追いつくことはできないと自覚していた。一流企業に就職して活躍される相手とそうではない自分の差。そもそも雇ってもらえる会社もなく、数百万円の奨学金の借金と、学生納付特例で延滞させた国民年金の追納義務を抱えて、途方に暮れる未来を覚悟していた。だから学生時代は誰に対しても親しそうに振舞っていたものの、本当は恐れ多く、誰もがとても手の届かない相手であると思っていた。だから誰もいない深夜の目黒不動で、池の欄干によりかかる暗闇の中の彼女の背中は、ぼくにとってはあまりに遠すぎた。


翌年、2023年に父が亡くなり、実家の近所にある葬儀場で葬式を上げた。本家の長男だと云われ、夏と冬に床の間を占領する中元と歳暮の数と比較してみたら、ほんとうに数えるほどの親戚しか葬儀場にいないのが不思議だった。あるいは母が一部の人にしかお知らせしなかったのかも知れない。医者から肺気腫と言われたので、最期は息が苦しかったのかも知れない。若いときから煙草をたくさん吸っていたのが原因となったのかも知れないし、それとも寺院の修復などの際に人体に害を与える種類の建材の粒子の舞う空気を吸い込んだのが原因となったのかも知れなかった。葬儀屋は菩提寺の住職を手配したが、それは小学校のときのぼくの同級生だった。40年ぶりくらいに再会した彼は「わか」と呼ばれ、読経し、戒名を授け、焼香し、法話を述べた。畳の上で向かい合って正座し、「ありがとうございます」と頭を下げた。最後まで父はぼくを待ち続けた。家業を継いでほしいと待ち続けていた。そしてそれをぼくは知っていた。霊安室の入り口付近で伯母(いちばん上の姉)と母がぼくのことで口論していた。伯母は母に「黙れ」と言い、「この子をいちばんよく知っているのは私だ」と叫んでいた。何の話だったのかは分からない。


2026年6月に分水に訪れる機会があった。かつては新潟県西蒲原郡分水町であり、2006年以降は新潟県燕市分水町になった。かつてこの地方に甚大な水害を与えた信濃川の流れを制御する目的で、川の水を二つに分けた。信濃川下流への流れとは別に、日本海に直接流す人口の放水路として建設されたのが大河津分水である。これによって新潟市を流れる信濃川は暴れることなく、人々は平穏に暮らし、水を稲作に利用することができた。数千人の労働者が13年かけて、重機のなかった時代につるはしやスコップやトロッコなどの人力中心で完成させた。建設費は現在の価値で1兆円近いと云われる。1秒間で2,700立方メートルの水量を運ぶということは、50mプールの約1.1倍の水量を1秒で流していることになる。水の流れている川幅は300mで、河川敷まで含めると600mの広さになる。

この分水の寮に住んでいたのは40年前のことであり、ポチの散歩をしていたのも、農業用水路の脇で本物の火の玉を見たのも、同僚の女の子を肝試しで怖がらせ過ぎて泣かせたのも、誰もいない土手に置かれたテトラポッドの上で星を眺めていたのも、すべて40年前のことだった。家業は継ぎたくないとその時は考えていたが、他の目標があったわけでもなく、どうしたものかと惑っていた。あれから40年が経って、自分は何がしたかったのか問われると未だに答えられない。故郷に高齢の母を一人残し、東京で仕事だけに明け暮れ、家族を形成することもなく、たまに帰省してお土産を配ったり、母に最新のiPhoneを買ってあげたりしてなんとなくお茶を濁している。自分よりずっと健全な人を責めたこともあるし、ずっと立派な精神を持つ人の親切を跳ね除けたりもしてきた。降り注ぐ愛情と降りかかる火の粉を、けして間違えずに来たとは云えない。ここまでの人生でぼくが得たものは、いったい何だったのか。少しでも他人の役に立つことができたのか。東京の自宅の机の引き出しに入れてある紙の束、親切にしたベトナム人からもらったちょっとしたお礼の手紙や感謝のメッセージ、それがぼくの持っている唯一の宝物だった。けして上手とはいえない日本語で書かれたお礼を伝える付箋一枚が、ぼくにとってはたいへん価値のあるものだった。ぼくが死んだら遺品整理業者が遺品を回収し、相続財産清算人が価値のないものと判断して、首を傾げながら燃えるゴミに出すかもしれないその紙切れが、ぼくが生涯かけて辿り着いた人生の到達点だったのではないか。

かつて田んぼだった道はきれいに舗装され、住宅地に変わっていた。レンタカーで借りたスズキ・ソリオを路肩に止め、かつてと変わらない農業用水にかかる橋を渡り、土手の斜面に敷かれた石段を上がっていった。斜面には名前の分からない多くの植物の中にカモガヤやススキ、シロツメクサ、ヨモギなどが見られ、ときどきセイヨウタンポポの黄色い花が混じっていた。用水路沿いに並んだ桜の木に昆虫を追って野鳥が飛び交っていたが、野鳥の姿は見えず、セキレイなのかカワラヒナなのか分からない。土手に上ると河川敷含めて600mというだけあって、広大な景観を見ることができた。ぼくの高校時代は贅沢だったのだなと、はじめて気づいた。この川は人口の放水路なので、あまり曲がりくねっているということはない。下流の方も上流の方もほぼ直線的に続いていくので、はるか遠くまで見渡すことができた。これだけ広大な景観の中で、人の姿はひとりも見えない。かつてテトラポッドのあった場所に来てみたが、消波ブロックはすでになくなっていて、高校生の頃のようにその上に上ることはできなかった。新潟の6月としては珍しく、空は真青に晴れ、雲一つない。下流の方には1922年に掛けられた越後線の鉄橋あり、約30分に1本の間隔で電車が通った。

鉄橋のほうに歩いていくと白い円柱の4本の柱に支えられた東屋のような休憩所ができていた。屋根の下にはベンチがあり、桜の木が並木状に並んでいる。そのベンチに座ることもなく、鉄橋まで行って、線路の彼方を眺めた後、引き返した。これから岩室リハビリテーション病院に向かい、医師の説明を聞くためだ。看護師、理学療法士、作業療法士、医療ソーシャルワーカー、介護ケアマネージャー、福祉用具業者などと一緒に母を連れて自宅に帰り、玄関の框の高さや家の中の段差、湯船の高さ、階段の手すり、廊下の幅、トイレへの動線、ベッドの位置などを確認し、どこにどんな手すりをつけるか相談するためだった。後方で電車が鉄橋を渡る音が聞こえて振り返った。2両編成のE129系だった。金属の塊が鉄橋を渡る振動音は河川敷全体に反響して、余韻が長い。ぼくは40年前のぼくがそうしたのと同じように、完全に音が聞こえなくなるまで鉄橋を眺め、何も聞こえなくなると前を向いて歩きはじめた。巨大な放水路はまっすぐ流れ、どこまでも続く遊歩道もまっすぐ続いていた。

(おわり)


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