
岩室リハビリテーション病院から岩室駅まで歩くのはさすがに遠いかなと思った。時間的には早かったので、行って行けないこともなかったのだが、荷物が多かったので諦めた。タクシーに乗って数か所を移動すれば、タクシー代はたちまち新幹線代を上回った。すぐ西側には600m級の低山・多宝山が迫り、それを超えると間瀬海岸がある。岩室駅は単線の無人駅で、高校生の頃は電車の窓から見ているだけで、この駅で下車したことは一度もなかった。駅前にはタクシーが1台止まっているだけで、他には何もない。待合室にも人の姿は見られない。駅を出たところにちょっとした広場があり、岩室駅前公園というらしい。荷物をベンチにおいてそこでしばらく佇んだ。明日から5月というところで、新潟にしてはよく晴れた日だった。向かい側、遠い方のベンチにいる老人の横にあるものが黒い犬なのか、黒い鞄なのか、どうにかして見極めてやろうとしてしばらく目を凝らしていたが、それ以上はっきり見えることもなかった。犬にしては動かないなと思ったり、そうはいっても動いたようにも見えたりした。耐寒・耐雪性能に優れた2両編成の新型車両E129系が1時間に1本の頻度でのろのろやってきた。ドアはボタンを押さないといつまでも開かない。冬の暖房効率を下げないための仕様だと思われるが、これは通年で採用されている。季節によって変動すると余計なコストや混乱が発生するためなのだろう。この土地では、電車のドアはボタンを押して開くものなのだ。それに気づかず自動で開くのを待ち続けると、目の前にやっと止まった電車に乗ることができないまま、また1時間後の電車を待つことになる。それはあまりに長閑(のどか)すぎた。
電車は架線から無尽蔵な電源を受け取ってモーターを回し、戻り電流は線路に捨てる。大容量のバッテリーを搭載する必要がなく、車体が軽くできて、軌道上であれば航続距離の制約がない。バッテリーを車体に搭載しなければならない車(EV)は軌道上から離れる自由を獲得した代わりに航続距離の制約とバッテリー重量を背負うことになった。ゴールデンウィークの間の平日の午後で、電車の中には何をしているのか分からないような人ばかりだった。目の前にグレーのスーツを着た女性がいたが、この辺に彼女のような人が働いている会社があるというのが何とも不思議な感じがした。窓の外は淡褐色の田園風景で、乾いた土の上には水もなく、稲の影もなく、気にも留まらない程度の風だけが通り過ぎていった。電車は駅と駅の距離が長いこともあって、代わり映えのしない風景がどこまでも続いた。
ある意味で巨大な電気回路の一端に電車は乗っているのであり、変電所・架線・負荷(電車のモーター)・線路という閉じた電気回路上を移動していると云えなくもない。より厳密にいえば、回路上を動いているのではなく、回路そのものが伸び縮みしているという方が妥当だろうか。E129系が岩室駅にいたときは岩室駅までの電気回路であったが、隣の駅に移動すればもうすでに岩室駅までの電気回路ではなくなっている。越後線の変電所がどこにあるか知らないが、変電所から離れた場所に行けば行くほど、架線の距離が長くなって抵抗が大きくなるため、モーターを回す電圧が下がる。一方で変電所に近づけば近づくほど抵抗が少なくなって電圧は大きくなるはずだった。だとすると供給される電源の電圧が電車の移動によって絶えず変化しているのであって、それにもかかわらずモーター出力が一定に維持されているのだとすれば、それはインバーターの努力というほかない。田植え前の田園風景を眺めながら、取引先インバーター・メーカーの設計部長の顔が思い浮かんだ。立派な仕事をしているのだなと改めて想った。
何件かの親戚と近所の楽器屋をまわり、母のことでお世話になった人に挨拶して回った。COCORISのレモンとオレンジのマドレーヌ、SANZENの萩の調、豊島屋の鳩サブレーなどを渡して荷物は軽くなった。とくに従兄の歯科医が初期対応をしてくれたおかげで、大きな助けになった。ぼくは東京で一人暮らしだし、母は実家で一人暮らしだった。車の免許を返納して、生協の宅配サービスに頼る生活をしている。スリッパに躓いて大腿骨を骨折し、チタン製の人工股関節で代替する手術を行った。それから約3週間が経過し、リハビリテーション専門の病院に転院したのだった。挨拶に回る途中でタクシーの車窓から、かつて父の仕事の資材置き場だった倉庫を探したが見つけられなかった。きっとBピラーとCピラーの隙間を流れていったどれかの建物がそれに取って代わったものだったのだろう。かつてクロシタアオイラガに刺された柿の木も、かび臭い空気を纏った錆びたシャッターも、草むしりで格闘したスベリヒユなどの雑草も、今はもう見られない。
田園調布に引っ越したのは2002年のことで、2度目の2年生をやろうとしているところだった。同じ学年で留年は1度までのルールがあり、2度留年すると即退学という決まりがあった。ぼくはあまりに勉強しなさ過ぎて、フランス語を落としたからたちまちリーチがかかった。これによって卒業できる年は35歳ではなく36歳になったのだが、今さらその違いを気にする必要性も感じられなかった。田園調布5丁目の丸子川沿いのアパートを借りて、もの凄く急な坂道を毎日20分登ったり下ったりしながら田園調布駅まで行くことになった。朝の出発が遅く、駅まで行くのにタクシーに乗ることも少なくなかった。ここはただの住宅地が広がっているだけで商業施設などは何もなく、何をするにも不便な場所だったが、唯一多摩川が近いのが良いところだった。東京に来てからプールで泳ぐということができなくなっていたのだが、代わりに多摩川の両岸を走るということをなんとなくやりはじめ、なんとなく習慣になっていった。土手沿いに走って丸子橋と二子玉川橋をぐるり1周する10kmくらいのコースである。川崎市側の土手を走って二子玉川橋に向かい、世田谷区と大田区の土手を走って丸子橋に戻ってくる。
2限で終わりの日は12:15に終わり、3限まである日は14:30で終わりだった。サークルの部室に誰もいなければ、帰宅するしかなかった。英米文学専攻は非常に立派な教科書必携であり、なんなら辞書も持たなくてはならなかった。CASIOのEX-Wordユーザーだったが、ゼミの先生はPaper formでないと駄目です、という立場をとったので、相変わらずのプログレッシブ英和中辞典を持ち歩くことも多かった。夏の暑いときでも、重い荷物を抱えてわざわざひとつ前の駅で降り、灼熱の中を40分ほどかけて帰宅した。自由が丘駅から玉川聖学園と九品仏駅の商店街を抜けて環八に出て、ぽかぽか広場の横から入って坂道を下り、田園調布雙葉学園の横を通って家に帰った。当時ソニーのCDウォークマンが谷山浩子の「ねこ曜日」などを鳴らしていた記憶がある。田園調布の住宅地を現代英語学の教科書(英語)を読みながら歩いていると、たちまち警察官に呼び止められて職務質問された。30代半ばの男性が平日の昼間に仕事もせず、高級住宅地を怪しげな英語の大型本を読みながら歩いていると、事情を聴く必要があるというふうに思われるのだろう。この辺りは、プレッセ(田園調布駅に隣接する高級スーパー)で1個600円のタマゴを買うような階層の人が歩く場所なのである。
およそ2ヵ月もある夏休みは毎日のように、学校があるときでも早く帰宅できた日はすぐに多摩川の河川敷に行って、走ることもあれば、読書することもあった。川幅でいうと新潟の大河津分水の半分くらいの大きさの川であるが、それでも広大な多摩川緑地は見晴らしがよく、野球やテニス、ラクロスなどをしている人や、楽器の練習をしている人などが多かった。今からはとても考えられないことであるが、田園調布5丁目から丸子橋まで行き、そこから二子玉川橋までの一往復を終えた後、まだ走り足らずに都道2号線を田園調布警察署で環八に折れ、多摩美術大学(上野毛キャンパス)まで行って戻ってくる(総距離18kmくらい)というのがいつものコースだった。真夏でなければ土管の上に寝転んで、ハーマン・メルヴィルの『白鯨』を読んだりした。夜になるとサークルの掲示板に書く散文を書いたり、慶應ペン(サークルで発行する本)に掲載する小説(みたいなもの)をwordで書いたりした。
夜中、というか朝方(3時とか4時)、突然電話が鳴ってたたき起こされ(ぼくは周囲から名前を呼び捨てで呼ばれていた)、すぐ近くに来ていた車に乗せられて「今から京都に行こう」などと無謀なトライが急に始まることもあった。ぼくを誘った二人のうちの一人が千葉の実家から新車のヴィッツを持ってきていた。母親が乗り換えた車らしい。3人とも半信半疑で西に向けて一般道を走っていると、途中で本当に行くことになり、でも3人ともたいしてお金を持っていないので、できるだけ高速道路に乗らないで京都を目指した。ぼくよりひと回り若い人間が二人いて3人交代で運転するといっても、あまりに京都は遠すぎた。途中から結局高速道路に乗って、疲れ果てて寝ている二人を乗せたままぼくが長距離を運転して京都にたどり着いた。このときは京都を旅立ってから4年くらいが経っていたのだが、勤務していた会社の前を通ることはなく、府道118号線から旧安祥寺川沿いに入っていく道が見えただけだった。漆でごわごわになったジーンズを履いて、とぼとぼ歩く自分の姿が数年前には確実にそこにあったのであり、納期の迫る中で出来栄えの良し悪しを常に心配していた気持ちが鮮やかに蘇った。サークルの二人は以前京都で働いていたことは無論知っていて、「この近く?」と訊いたが、適当にごまかした。この118号線から大石道を北上すると5条通りに出る。この5条通りは山科区と河原町などの繁華街を結ぶ重要な道で、ぼくはここを歩いて八坂神社まで往復することもよくあった。慶應義塾大学三田キャンパスの正門前の道が国道1号線で、この京都の5条通り(国道1号線)まで続いているのである。
賑やかな大勢の中にいることはあまり苦にはならなかったが、一人きりになることも嫌ではなかった。ぼくはもともと一人っ子ではあったものの、19人の従兄弟姉妹(男性:4、女性:15)がいて、一か所に集まればたいへん賑やかになった。田舎の地域社会では一定の範囲にその大多数が住んでいて、毎年必ず誰かが進学し、就職し、結婚したり離婚したりした。親戚以外でも小学校や中学校の同級生などが、何をしているかとかどうなったかといった情報が飛び交っているような中で育ってきた。そんな中でぼくは落ちこぼれで、それは大学に進学しても変わらなかった。学生証を持っているという、その一瞬を切り取ればある程度立派な立場に見えなくもなかったが、問題はその将来性であり、卒業後にどうしようもなくなるということを知っていたので、惨めな未来を前提にするしかなかった。ぼくの周囲には自分を「ダメ人間」「社会のクズ」「廃人」などと自己評価する人もいたけれど、それはファッションに過ぎない。少なくともぼくから見れば、20代前半に大学を卒業できるのであれば、圧倒的に勝ち組に見えた。
3年生になってみると様々な有名企業からレターボックスに入りきれない会社案内やエントリーシートが山ほど送られてきた。2003年の夏から秋にかけての時期だったと記憶している。当時はインターネットもあったけれど、まだ郵送に比重が置かれた状況で、手書きで書いて郵送するという文化だった。誰もが知っている大手や有名企業から凄まじい量の訴求物が届くことに驚いた。リクナビの登録情報から大学群にフィルターをかけ、一部の大学の学生にしかDMが届かないようにしている会社もあった。大学を卒業したらごみの回収でもしようか、などともともと吞気に考えていたけれど、清掃局に勤務するには実際に地方公務員試験に合格する必要があるし、それさえ年齢制限があって受けることはできなかった。奥沢駅前のコナカでリクルート・スーツを買おうとしても店員に訝しがられた。なぜその年齢でリクルート・スーツを買うのか、という説明から始めなければならなかった。まるで何か悪いことでもしているかのような罪悪感というか後ろめたい気持ちがあった。自分のような人間が就職活動をするということが採用企業や、スーツの量販店や証明写真を撮る店にまで迷惑をかけているような気がして仕方がなかった。
そうはいっても、退路はなかった。いまさら実家の家業を継ぎます、という選択肢はなかった。ゼミやサークルにいた同級生は、就職先の企業が立派な会社でないと恥ずかしいという認識を持っていたと思われるが、ぼくにとっては贅沢な話だった。ぼくの場合は36歳で新卒採用に応募すること自体が申し訳ないという気持ちだった。会社の規模や業種を云々できる立場ではなかった。とにかくたくさんのエントリーシートを書き(100社以上)、応募してみたけれど、すっかり全滅だった。面接の機会さえ得られなかった。一部面接に呼ばれた会社もあるにはあったが、それは年齢を知らないで間違えて面接に呼んでしまった会社だけだった。面接の場で謝られたこともあった。リクルーター制の採用活動を行う会社は、大学の先輩が同じ大学の後輩をレストランに呼んで食事をしながら人材を評価するということがあったが、その場合も相手はぼくの年齢を知らないで合流し、年齢を知って今さら「帰れ」とは言えないので、採用する可能性のまったくない人間と一緒に食事をするという、いたたまれない時間になった。コナカで買ったスーツは誰もが参加できる会社説明会に行くときにしか着る機会はなく、面接などの選考会ではほぼ着る機会はなかった。
一方で、新卒採用ではなくて中途採用だとどうなのか、ということも考えた。中途採用であるならば、36歳という年齢はハードルにならない。ただし、それはリクナビで検索できる約10,000件の求人情報や求人企業から山ほど届き続けるDMをすべて捨てることを意味した。それらはすべて新卒者が欲しいのであって、中途採用が目的ではないからだ。それからは渋谷のハローワーク、飯田橋の東京しごとセンターなどに通ってたくさんの中小企業に応募したが、こちらはこちらで全部駄目だった。職業相談員はいろいろな会社に電話をかけてくれたが、該当する実務経験がないと面接さえしてもらえなかった。ぼくのやってきた漆工業の経験は誰にとっても不要な経験だった。寺院の内装や修繕、道具・机、祭事の山車、獅子舞、仏壇・仏具、什器・漆器などの難易度を説明しても、会社からしたら何の実務経験もない人間という評価になった。当時は買い手がまだ強く、会社も合致しない人材を無理して採用することはなかったのである。中途採用の場合はつまり、大学を卒業しようとしているという事実は全く関係がなく、たんに高卒でまともな会社経験がない36歳の男性というカテゴリーに分類された。新卒採用であれば年齢を知らずに間違えて面接に呼んでしまうということもあり得たが、中途採用ではそういうことは100%起こらなかった。
このようなわけで、新卒採用は何も出来なくても良かったが年齢の問題で採用されない、中途採用では年齢は問題にならないが応募職種の経験の問題で採用されなかった。営業職に応募するには営業職の経験が必要であり、必要な経験を身に着けるためには営業職で採用される必要があった。つまり新卒でも中途でもどちらにしても就職できる方法は見つけられなかった。仕方がないから、環八沿いにあるガソリンスタンドのアルバイトの求人にまで応募する始末だった。コナカで買ったリクルート・スーツを着て、志望動機を熱心に書いた履歴書を持って、アルバイトの採用面接に行った。「2005年3月、慶應義塾大学卒業見込み」とある履歴書を読んで、ガソリンスタンドの店主は考えた。時給820円の仕事をぜひやらせてほしい、とぼくは精一杯お願いした。もし採用してもらえるなら本当に一生懸命に働こうと考えていた。大学に行けば、大手のメディア、金融、メーカー、運輸、インフラ、商社など有名企業に決まったという話が色々な人から聞こえてきた。司法試験や公認会計士を目指して勉強しているものもいたが、ぼくにはこれ以上勉強を続ける猶予もなかった。ぼくはガソリンスタンドのアルバイトの選考にかかっている、とは誰にも言えなかった。一週間後くらいに電話が鳴って、選考結果を教えてもらった。
不採用だった。