Propertyをめぐる闘争


どんなに田舎者で世の中の争いごとやもめごとに無頓着だったとしても、知らないうちにいつの間にか巻き込まれ、羨んだり妬んだり、気が付くと必死になって争奪戦に明け暮れる。目に見えない政治的な問題によるものか社会的な問題によるものか、はたまた生来的なものなのか。それは分からないけれど、いつの間にか争いの渦中で必死な自分を発見する。それがPropertyをめぐる闘争だ。


1999年の2月6日とか7日とかその辺、上智大学の入学試験の合間に、1号館の廊下の窓から見下ろした正門の前で息子か娘の受験が終わるのを待つ家族の人だかりを見た。教室の隣に座っていた女子高生がもっていた小学館のプログレッシブ英和中辞典の使い古されて黒くなった猛勉強の痕跡にも驚いたが、そのような受験生を雪のちらつく寒い日に、何時間も外で待ち続けている親がいるのかと、それにもまた驚いた。その辺のカフェで時間をつぶして終わったころに迎えに来ればいいのに。そんな風景を見たとき、この大学に入ることは、そんなに価値があることなのか、と初めて実感した。

田舎にいたころは学歴の価値などまったく分からず、「ああ、そう」といった程度のことだったが、東京の人にとってそれが死活問題というか、今後の人生に大きな影響を与えるものとして認識されているということ。学歴を身に着けることに対する一生懸命さがぜんぜん違った。ぼくが尊敬していた友人は有名大学の人ではなく、ゴジラの顔を見ただけで映画の作品名が正確に云える人だった。

ぼくはあまりにぼんやりしていたし、世間知らずだったし、無知だった。就職という問題についてもまるで関心がなかった。だいたい30歳を過ぎてから大学に行くのだから仕事を選べる立場でもないだろうということもある。実際に本が読めれば仕事は何でもいいかなと、呑気なことを考えていた。清掃局にでも勤めてごみを収集する仕事に就ければ文句はない、燃えるごみを燃やすのは楽しいだろうな、その程度の認識だった。英文科のゼミで、オスカー・ワイルドの研究者が、古典文学を読む以上に人生の時間を有効に使う方法はない、と云っていたのを聞いて、やはりそうかと思った。一方クラスの一隅では内定をもらった会社の悪口を嬉々として語る学生の声も耳に残った。就職できる嬉しさを体育会的な社風への不満によって表明していた。

どの大学の学生になるかとか、どの会社の一員になるかということは、ファミコンのカセットを何本持っているかというのと同じことだ。他者に対する自己顕示欲かも知れないし、社会的承認を得るためかも知れない。単に自己満足なのかも知れない。たとえば「組織・団体に属している」ということや「職業・家族を持っている」ということは、本人の安心感だけではなく、社会的安全保障としても機能するわけで、きちんとした属性と所有を有する人物は悪いことはしない的な、なんとなくの合意がある。国が定める安全基準PSCマーク(Product, Safety, Consumer)がつけられている人間みたいだ。

1969年の映画『イージー・ライダー』では、何も持たず、何にも属さない若者(ピーター・フォンダとデニス・ホッパー)がバイクで旅を続けるが、宿に泊まろうとすると「空室」を「満室」に変えられて宿泊を拒否される。自由を求めたはずのアメリカは、本当の自由に恐怖するという皮肉。何かを抱え、何かに繋ぎ止められ、身動きが取れなくなって人間ははじめて一人前だといった、そんなことなのだろうか。職業があり、結婚していて子供があり、住宅ローンを抱えていて首が回らない人がいちばん信頼できる。そうした社会の空気感を察知するともなく察知して、所有と属性を求める競争に向けて歩き出す。首が回らないほど不自由な状態を求めてPropertyをめぐる闘争に参加したのかどうかは、もはやみんな忘れてしまっただろうけれど。

まんがやファミコンのソフトをめぐって、CDやDVDのコレクションをめぐって、めったにとれないUFOキャッチャーの景品をめぐって、進学する学校や就職する会社をめぐって、より優れた配偶者をめぐって、SNSのいいねやフォロワー数をめぐって、1歳でも若く見える見た目をめぐって、理想の体重や健康な血液検査の結果をめぐって、とにかく人生は至る所でいつ果てるともなく、各々が様々な闘争に明け暮れる。明け暮れながら年を取り、争いのさなか人生を終えていく。ゲームも音楽も映画も本も、学歴も資格も職歴も、経験やスキルも、国籍も性別も年齢も、配偶者や扶養者の有無も、収入や貯金額も、家や車や財産も、何もかもが属性情報であり、所有対象でもある。人気のある所有と属性には需要が殺到するし、供給は少ない。したがって争奪戦にならざるを得ないのだ。


アメリカ合衆国のトランプ大統領の言ったゴールドカードについて、NHKのニュースで最初に聴いたときは何とも思わなかったのだが、岡田斗司夫のyoutube動画ではじめて理解することができた。ゴールドカードというのは、およそ100万人を対象に販売され、500万ドル(7億5千万円)でアメリカ国籍が取得できる。全部売れると750兆円の売上になって、日本の国家予算(一般会計)の7倍近い収入が得られる。

ゴールドカードの購入者は大金持ちで、たくさんの消費が期待でき、犯罪の心配が少なく、高額納税者になる可能性が高い。つまり移民としては上等な顧客であり、国にとってウエルカムな人々である。それは同時に、これまでの豊かではない移民に対して、本来7億5千万円の価値のする米国籍を無料で取得しているのは「いかがなものか」となって、排斥のための口実に利用される可能性も生む。

本当に米国がこの政策を実施するのかどうか分からないが、他国も追随するだろうか。国籍が市場経済の中で評価され、比較され、値付けされる。それによってきわめて客観的で、身もふたもない、国の値段がつけられ、格付けされることになる。いくら立派な国であると自ら主張しても、市場での評価はまた違う。さまざまな要素(安全性・文化・利便性・経済・言語・医療・福祉・教育・食文化・観光・歴史・・・)のグローバルな評価によって値段が決まる。市場から国籍に価値がないと見なされれば値段は0だし、お金をもらっても欲しくない国籍も当然あるだろう。

世界の幸福度ランキングだと、フィンランドが1位で、デンマークが2位、スイスが3位と続く(ちなみに米国は18位、日本は62位)のであるが、もちろん国籍の価値と同じではない。国籍の価格ランキングは、幸福度のような曖昧で主観的な指標ではなく、世界的な需要の大きさを反映したリアルな価格が露骨につけられるので、ある意味、もっとも信用のできるランキングともいえる。

国によって二重国籍が認められている国と認められていない国があり、認められていないけれど黙認されている国もある。日本は基本的に二重国籍が認められていない国なので、国籍の購入は、現在の日本国籍を手放すことと同義となる。そういう場合は自国よりも価値の低い国籍の購入は、より価値の高い国籍の放棄を意味するため、慎重に考える必要があるだろう。かりに7億5千万円の支払いが余裕でできる立場だったとして、日本国籍を捨てて米国籍を取得する価値があるだろうか。両方の国籍を同時所有できるなら結構だが、どちらか一方ということになると、判断が難しい。「買い」だと思った国籍の評価が後になって下がり、資産が目減りするといったことも、なくはない。

大学でたとえて云えば、慶應義塾大学の学生が東京大学の学籍を取得するために慶應義塾大学の学籍を放棄する、というのはいかにもありそうだが、慶應義塾大学の学籍を捨てて早稲田大学の学籍を取得するのはどうなのか。「こちら」と思って一方を選択しても、時代の中で価値が変動する。スキャンダラスな事件が起こると学籍の値段は暴落し、また持ち直し、順序が入れ替わり、もはや株価と変わらない。


そうなってくるときわめて新自由主義的であり、なおかつSF的な世界になってくる。我々のproperty(属性・所有)が仮にすべて着脱可能・交換可能で、市場経済の中で価格が決められ、「売る」ことも「買う」ことも可能なら、どんな世界になるのだろうか。トヨタのディーラーに行って値札のついた車を購入するのと同じように、婚活を行うにあたって実際に卒業した大学を「下取りに出し」て、もっと立派な〇〇大卒という属性を「購入する」とか、転職活動の際に実際の汚れた経歴を大金払ってきれいにリセットしてから面接に臨むとか、そんな世界。需要の高い属性には高値が付き、需要の低い属性は見向きもされない。金さえあれば何でもできる。そんな状況になったとき、我々が本当に価値を認めていることは何なのか、その価値の順序はどうなのか。市場経済的な原理の中で、それらは数字になって表れてくる。

そのような世界で、もっとも高価な属性は「若さ」かも知れない。自分自身の価値を知らずに、自分の若さを売り払って後悔する人であふれかえる。大金を手にするが、それと同時にもう若くはない。Yahooオークションで「20歳」が販売され、新規事業の立上げ経験や海外営業経験が販売され、TOEICスコアや公認会計士の資格が取引される。それまで売買の対象ではなく値段もついていなかったものが、売買の対象となることによって、真の価値がはじめて顕在化される。一方で、相対的に価値が下がり、今までの価格が過大評価であったことが明らかになる、という場合もある。

手で触れることのできるモノ(法的には所有権の対象となるような有体物)が相対的に価値を失い、手で触れることのできないプロパティの価値が跳ね上がる。学歴も職歴も国籍も本来は売り買いの対象ではなく、個人の属性情報であるが、これが他者からの需要の高さに応じた値段がつけられ、売り買いの対象となれば、これまでの世界で通常に流通したものとの価格との比較が露骨にできるようになる。

ハイブランドのバッグやアクセサリーは、「若さ」につく値段に比べればあまりに安く、それまでの値札が過剰な価値評価だったことが明らかになる。人間の健康や性別・年齢などの属性さえ交換可能で売買される対象となるようなSF的世界が出現するなら、今まで高価だと信じてきたものは実はたいして価値がなく、またそれまで価格設定のなかった自身の経験やスキルに大きな価値が認められたりするかも知れない。あらゆることに値段がついてすべての価値が比較できる世界はたいへんグロテスクではあるものの、そうなってはじめて真の価値が評価できるともいえる。

でも現状、我々は属性を売り買いできるSF的世界に住んでいないため、真の価値は評価できない。ものごとの価値判断が妥当ではなく、きわめて貴重で大変価値のあることは気にも留めず、ちっとも価値のないことに固執して奪い合ったり、振りかざして自慢したり、大して価値のないものごとめぐって熾烈な争奪戦を繰り広げているとすれば滑稽だ。

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