まっすぐな屈折19


せめてもの救いは、大学を卒業できる見通しになったことだった。最難関の現代英語学はA評価で終えることができた。A評価で終えることができたといっても、それまでは3年続けて「D評価(落第)」だったので、最期だけ奇跡的に良い結果が出たということだった。この授業は合格しないと大学を卒業できない英米文学専攻の必修科目でありながら、2年生・3年生・4年生のどこかでC以上(合格)を取らなければならなかった。ただの「英語が得意」では全く通用しないような小テストの問題に短い時間で回答しなければならない。小テストは年に10回あり、2点満点だった。2点満点というのは0点か1点か2点のどれかという意味であり、年間の合計が10点に満たないとD評価になる。スヌーピーの4コマ漫画を2種類見せられて「名づけの違いを1行で書きなさい」という問題が出たとする。学生が途方に暮れていると1分で「はい終わり」となって問答無用で回収される。それで残りの小テストの回数は9回となるのであって、いつやるかは分からない。クラスは戦々恐々とし、一部悲鳴があがり、どよめきが起こった。なんなら大手企業に就職内定を取っていても現代英語学を落として行けなくなるということも普通に起こった。イギリス文学研究会では、Windows 1818というMicrosoftの製品をもじったタイトルで、Mary Wollstonecraft Shelley “Frankenstein”における窓についての論文(らしきもの)を英語で書き、どうにかお情けで通してもらった。

とはいえ、勉強は努力に見合った結果が出るところが公平だが、就職活動は必ずしもそうならない。大学に行く前からなんとなく就職は上手くいかないのだろうと予想していたものの、実際の就職活動がここまで難航するとは思わなかった。漠然としていた不安は現実的な生活の脅威に変わっていく。子供の頃にぼくが偉そうだったり生意気だったりしたのは、周囲の大人たちを見下していたからであり、周囲の大人たちを見下していたのは自分の方がもっと優秀で、もっと良い仕事ができるという思い込みがあったからだ。でもその自信はいつ到来するか分からない未来によって支えられていたのであり、そのいつ到来するか分からない未来はどうやら到来しそうにない。何かになれるつもりでいたが、何にもなれずに消えていく。どうやらぼくは社会から必要とされていない。自分が誰かに感謝することはあっても他人から感謝されることはない。誰の役にも立てないし、誰かの期待に貢献することもできない。親不孝はできるが親孝行はできない。迷惑な邪魔者にはなれるが誰かに喜んでもらえるようにはなれない。

親からもらった仕送りも、奨学金の借入も、国民年金の納付猶予もすべて未来への付けであり、相手側から見た場合の売掛金をいたるところに作って回っただけだった。付けは信頼関係が前提となるのであり、必ず後で返せるという信用が自分の未来にはあるはずだった。「人生は一度しかない」などと云いながら、7年という歳月と買掛金という債務を抱えただけで、その信頼すべき未来は到来しない。かつて重要文化財や国宝、宮内庁の仕事まで行っていた。顧客や取引先に少なからず喜んでもらえる仕事をしていたのに、そんな贅沢を云っている場合でもなくなった。どうしたものかと思いながら、2005年の3月が近づいてきた。


卒業式は、慶應義塾大学日吉キャンパスの記念館で行われた。男性はスーツを着た人が多く、紋付羽織袴も交じっていた。女性は扇か毬、幾何学模様、もしくは牡丹、藤、百合、桜など様々な柄の二尺袖(振袖)を着て銀杏並木を歩き、「2005年 慶應義塾大学卒業式」の看板の前で写真撮影の順番待ちができていた。大教室で順番に学生証を返還し、それと引き換えに卒業証書を受け取った。文学部はとくに1年生のときだけ日吉キャンパスを使い、2年生以降は港区の三田キャンパスに行くことになるので、日吉キャンパスは最初の一年間の印象の強い場所だった。とくに塾生会館はサークルの部室の集まる古い棟であり、廊下にはトロンボーンを吹いている人や良く分からない奇術を練習している人がいた。ドアに何十種類も烏龍茶の空き缶を張り付けて烏龍茶研究会を名乗っているところもある。ペンクラブは同じマスコミ系というくくりなのか知らないが、弁論部と同室だった。お薦めの岩波文庫100選を作者名と書籍名をひたすら書き続ける部員の読書量に驚嘆しつつもそれを書いていったい何になるのだろうと疑問を持った日もあったし、ミヒャエル・エンデの「モモ」の場面設定にドラゴンクエストの会話スクリプトを乗せただけのような文章を読んでその稚拙さに驚いた日もあった。紙コップがどんどん溶けていくアルコール度数96%のSpirytusをストレートで飲んで、銀杏並木にぶっ倒れた日もあった。常駐しているわけではないが肝心な時にはいつもいる女性が、アメリカ映画みたいに卒業式に四角い学位帽を空に投げるのをやりたかったなと言った。名古屋に就職するのでラーメン二郎を食べる機会がなくなるのがいちばん残念という人もいた。

ぼくは5年前(2000年)にはじめてこの部室に来た。スチール製のロッカーの奥から古いカセットテープや古い部誌が出てきて、それを読んだこともある。誰が置いていったのか分からないマンガ(あさりよしとおの「宇宙家族カールビンソン」)が出てきたりした。1957年くらいからはじまったサークルらしく、古いロッカーのがらくたの中に様々な人々の微かな痕跡が残されていた。後の時代にこの部屋にやってくる後輩たちに対して何かしら自分の痕跡を残そうと努力して、でも結局時間の中で失われていったものもたくさんあったのだろう。ぼくもその中の小さな歴史のひとかけらになって消えていくのだろうと思った。ぼくがいる年で最後に出したのが慶應ペン「月」と「すっぽん」で、その中に書いたのが本作の原型「まっすぐな屈折」だった。このときこの中に書いたのは研究室棟の横でどんぐりを拾う自己否定氏のことをコロナと呼んで、彼女のことを中心に書いたのだが、そのコロナというのは「カールビンソン」に登場するキャラクターから名前を借りた。彼女は先に卒業していったので、それを読んでもらうことはできなかった。最後の後ろ姿、似つかわしくもないブーツを履いているのが印象に残った。一般から大きく外れた特殊な才能が、一般社会に向かって歩み寄っていくようにも見えた。人生は「今さらどうしようもない」のであり、だからF. Scott Fitzgerald “The Great Gatsby”やカズオ・イシグロの「日の名残り」のように、やり直すこともできなければ、過去を改変することもできない。Samuel Barber “Adagio for Strings”を聴きながら、そうした時代の残像を思い出してみることしかできない。「千と千尋の神隠し」の千尋の走り方を真似してみせたその一瞬とか、誰もが丸めて捨てそうなボウリングのスコア表を小さく折りたたんで大事そうに鞄にしまうその一瞬とか、そういう場面がいつまでも心に残った。

卒業式の日は誰もなかなか帰ろうとはせず、かといってそれ以上特に話題にすることもなく、何をするでもなく、かつてそこで過ごした日々のことを思い出していた。飲み会をこの後の日にやったのか、この日の前にやったのか、今となってはその順番は分からない。飲み会の後数人がぼくのアパートに来て泊まり、朝方田園調布の急な坂道を登っていくのを見送った記憶がある。ただ卒業式の日に関しては、ぼくは先に帰ろうと思った。「さて、旅立つとするか」と、わざわざ口に出して言った。それは京都を旅立つ時に新京極横の喫茶店でつぶやいたのと同じ台詞を意図的に言ったのだが、もちろん誰にも分からないことだった。


東京の桜がすべて散り、4月になっても、ぼくの就職活動は続いていた。もはや「新卒」というカードを使うことはできなくなっていたが、ぼくの場合は「新卒」カードにもともと意味がないので、失ったからといって何か重要なものを喪失したということでもなかった。屋根裏に上って害虫駆除をするような仕事にも採用されなかったし、寿司屋のアルバイトにも採用されなかった。毎日ハローワークに通い、定期的に飯田橋の東京しごとセンターにも行った。担当者はやたら自己分析とか面接のロールプレイなどをさせたがったが、そもそも書類が通らないのであって、そういうことではないのだけれどと思いながら、自己分析と面接の練習をすることになった。自分のキャリアの棚卸などと言われても、ぼくの過去のどこをどう探しても営業や事務系の仕事に結びつきそうな経験は見当たらなかった。足首を持って逆さまにして振ったって何も出てこない。新潟のハローワークにまで行くこともあったが、芳しい結果は得られなかった。毎日ニンテンドーゲームキューブで「バイオハザード4」をやるので、そのゲームがやたらに上手になった。母は「何でもいいから働け」と言い、父は何も言わなかった。ぼくは東京にいたので分からなかったが、当然地元では、31歳から大学に行った息子は卒業して今何をしているのか、という質問が殺到しているはずだった。母はそうした質問を誤魔化したり避けたりしなければならなかった。経済的にも困窮し、家から仕送りをもらっても生活していくことができなくなっていった。唯一のクレジットカードも上限いっぱいまで使い、家からもらう仕送りはほぼすべてその返済に充てた。田園調布のプレッセで買い物をしてもそれをカードで支払うことができず、店員がカード会社の担当者と連絡を取り合って、「ショッピング枠を超えていますが、今回だけは決済します」と言われたこともあった。買い物かごの中身がぜいたく品ではなく、生きていくのに必要な食糧だったので、大目に見てくれたのだろう。

毎日家の前を流れる丸子川沿いを散歩した。丸子川は小さな浅い川なのにそこに住んでいるたくさんの鯉を眺め、細い足で川の中にじっと立って微動だにしない白い鳥(コサギ?)をいつも探していた。鯉はいつでも必ずいたが、コサギはいないことの方が多かった。5月のゴールデンウィークも6月・7月の梅雨の時期も、相変わらず就職活動は続いた。長い年月をかけて多摩川が作った河岸段丘の高低差のある地形の住宅地を、36歳の無職が歩き回っているのはあまり歓迎されることでもない。警官に職務質問されても学生ですとは言えなくなったので、職務質問されないように気を付けて歩くようになった。学生向けリクナビはもう使えなくなっていたので、中途採用向けリクナビNEXTを使うしかなかったが、相変わらず職歴には何も書けなかった。

当時のこうした中途採用の広告媒体は不動産と保険の営業を募集する求人で埋め尽くされていた。それは採用活動が営業活動を兼ねているからであり、新しく採用した人の家族や親せきに不動産や保険を買ってもらうのを目的としていたからだった。だから採用試験に行くと自分の家族や親戚の名前を見込み客として提出させるのであって、それを書けなければ採用もされない。見込み客の獲得ができないのなら採用する意味がないからである。一方で不動産でもなく保険でもない営業職の場合は、当然のごとく製品やサービスを売ることのできる人材を企業は求めていた。前職の営業で実際にどれだけ売ったのかという実績が評価対象だった。1か月で何件のアポイントを獲得し、何件の商談(プレゼン)を実施し、目標数字に対して実績はどうだったのか。

いずれにしても世の中の会社は利益に貢献できる人材を求めているのであり、その関わり方が直接的であればあるほど評価が高かった。ただしどうしても「やってみないと分からない」という面もあり、だから過去の実績を参照するしか仕方がないのだろう。新卒採用の場合は学生の延長のようなところもあり、まずは新人研修ということになるが、中途採用は「即戦力になるかどうか」「利益を上げられるか」という評価軸で計られる。あまりゆっくり仕事を教えるといったこともない。大学卒業後の数か月間の就職活動において、やっと会社の求めていることや、社会の厳しさが次第に明らかになっていった。とある高校生・浪人生向けの予備校を経営している会社では、学生にとって不必要な夏期講習・冬期講習をどれだけ受講させることができるか(売ることができるか)が重要で、必ずしも学生の合格や成績の上昇を最優先にしていない。学生に寄り添って合格に向けて追走する人物ではなく、売上を上げられる人材を採用したいのだと知って驚いた。自分が生きていくためには他人がどうなろうが知ったことではなく、顧客に喜んでもらえる仕事などという発想がそもそもちゃんちゃらおかしいというか、幼すぎたのかも知れない。


2005年8月も終わるころ、渋谷の道玄坂(当時の東急百貨店本店の向かい側)にある人材会社から内定をもらうことができた。試用期間4ヵ月と契約期間1年間の有期雇用契約の契約社員だった。その会社の社長は公認会計士で、当時新規事業の立上げを行うということで、部門のリーダー(現在はその会社の社長)から「試しに使ってみよう」ということのようだった。やっと就職が決まり、9月から働くことができるということを家族に報告したが、母は喜んでくれた一方で父は別にうれしそうではなかった。ただ「そうか」と言い、「よかったな」と言った。ぼくはくたびれたスーツを着て、鞄を持って、田園調布駅から東急東横線に乗って、凄まじい満員電車に揺られて渋谷まで通った。なんとか試用期間の4ヵ月をクリアして契約期間1年にたどり着かなければならないと思った。その会社は50代くらいの中途採用者が多く、他の会社で一定の実績を上げた人が何かしらの理由で転職してきたといった感じだった。彼らは新入社員のぼくに話しかけ、「36歳でそれしか給与をもらえないの?」と気の毒がったが、ぼくにとっては新卒の給与より高い給与が設定されたことにむしろ驚いていた。

客観的に見ればこれが1度目の転職であり、転職であるからには前職よりも価値の高いことをしなければならなかった。この1度目の転職には実に7年9ヵ月の歳月がかかったのであり、それだけの投資に見合うものを得なければ辻褄が合わないと思った。漆塗りの職人としての実績と経験は、中途採用において誰からも評価されなかったけれど、価値がなかったわけではない。むしろ、その時以上の価値を生み出すことは遥かに難しいことだと思った。ぼくは京都で意地を張りすぎた。約束にこだわり過ぎた。あまりに遠回りをした。もし22歳で大学を卒業していたとすれば、社会人14年目という年齢である。14年も遅れたスタートを切って果たして追いつけるものなのか。1年間の契約期間の中で新規事業を立ち上げることが出来なかったらクビであるという前提の中で、無我夢中で走りはじめた。


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