
ぼくが行くことに決めた大学(日吉キャンパス)は横浜市にあり、生協学生委員会の部屋の壁に貼ってあった紙切れをひとつ取って内見もせずに「ここに住むわ」と決めた学生向けの狭いアパートは川崎市にあった。大学まで歩いて20分かかり、ちょうど横浜市と川崎市を分ける境界線をやや川崎市側にはみ出たようなところにあった。つまり毎日川崎市と横浜市を歩いて往復するのであり、東京は関係がないといえば関係がない。これを上京と呼んで良いのかどうか、厳密な言葉の定義は分からない。2001年になると川崎市から港区の大学(三田キャンパス)に通学し、2002年になると引越しして田園調布から港区に通学するようになる。2000年と2001年と2002年、どれが上京したといえるもっとも相応しい年なのか。東京に住居と通学先の両方がなかったのだけれど、2000年に上京したというのがいちばんしっくりきそうだった。
当時は地下鉄とJRの区別もつかず、電車といえば丸の内線だったので、川崎と横浜は誤差の範囲といえば誤差の範囲だった。田舎から出てきた人間にとっては東京と川崎・横浜の違いなど分からない。丸の内線を最初に覚えたのは、受験のときに池袋のホテルに滞在したからであり、上智大学のある四ツ谷まで行くことができたからである。この頃はどこかに行くのに複数の行き方があることを知らなかったのであり、池袋から新宿に行くのも丸の内線に乗る以外に方法がないと思っていたのだった。新宿は「かなり遠い」という印象で、後になって山手線を覚えたときにその近さに驚愕した。
最初の頃はどんな風に振舞っていいのかもわからず、電車の中で何を見ていれば良いのかも分からなかった。ぼくは常に何かを見ていたし、何かに注意を向けていた。何かを見るということはそれが何かを考えるということだし、対象が人間ならそれは誰だろうか、どこから来たのか、何をしている人なのか、などと考えることを意味した。見るということは考えるということとセットになっていて、同時に関心や興味の対象でもあり得た。それは自然で当たり前のことのように思えるが、案外そうでもなかった。東京では他人のことを詮索せず、相手が誰だか分かろうとせず、何をしているかに興味を持たず、何かを見ているようで何も見ていない、ただぼんやりしている、そういう待機モードのような様式が円滑な都会暮らしのために必要なことだった。そうした様式を獲得するまで時間がかかったが、徐々に慣れていった。大勢の中にいてもまるで誰もいない砂漠を歩いているみたいな虚ろな感じで歩けるようになっていった。
ぼくは偉そうだったし他人を見下していたしやさぐれてもいた。傲慢で不遜で配慮がなかった。誰に対しても敬語を使わず、感謝もなく、謙虚さもなかった。暴力に慣れていたといえば慣れていたが、別に争いを好んだわけではなかった。でもこの頃は正しさを信仰し、正しさを主張し、正しさをめぐる闘争に明け暮れた。正しさの勝利が絶対だった。相手の主張する正しさを、自分の正しさで打ち負かし、その争いに勝利することに夢中だった。かといってあまり知的な議論とか根拠に基づく主張とかそういうものでもなく、たんに屁理屈をこねているだけのような稚拙な主張を大声で怒鳴り散らしているだけだった。もっともそうした闘争に勝利したとしても、その結果お金持ちになれるわけでもなく、女性にモテるわけでもなく、健康で長生きできるわけでもなかった。豊かになるためには、周囲に慕われるためには、社会的に成功するためには、もっと別な要素が必要だったのだが、当時のぼくにはそれが分からず、むやみやたらに正しくあることだけを気にしていた。
東京の比較的裕福な家庭に育ち、経済的にも文化的にも社会階層的にも同質な人間の集まる有名私立中高などから来ている人の中で、たいへん異質な存在であったことは間違いない。たんに年齢が一回り違うということだけの問題でもなかった。端的に云えば、彼らは育ちが良く礼儀正しく洗練されていて、そしてぼくより大人だった。とある名門女子高校を卒業した19歳の女の子が「自己否定」という言葉を使うことに驚いた。言葉として知らないわけではないし言葉の意味は分かるけれど、そんな言葉は使ったこともないし、考えたこともない。19歳という若さで、自分を否定するという思索の領域に近づけるものなのか。ぼくはそのとき東京育ちの人との間に、単純に読書量の差、教養の差、情報量の差、文化水準の差、とにかく大きな格差があることに気づき、圧倒された。「自己否定だって。」と何度も口に出して言ってみた。ぼくはそれから数日間、自己否定のことばかり考えていた。
「火曜サスペンス劇場」の科白が間違えていると云ってはテレビ朝日のご意見・ご感想係にメールを出し、セブンイレブンの「あらいぐまラスカル」キャンペーンCMにケチをつけ、プログレッシブ英和中辞典の品詞の間違いを指摘してやろうと小学館に電話した。とある店舗でLadiesのアポロストフィの位置が違うと指摘し、ソニーのカスタマーセンタに新しいアルカリ電池を入れたのにフルバッテリー表示されないと文句を言った。歩道を走る自転車のために歩道を歩く歩行者が避けることについて過剰に憤り、車が夜間ハイビームで走ることを注意する人間にイラついた。
「火曜サスペンス劇場」は、容疑者の女優の楽屋を訪ねてきた刑事を付き人が追い返そうとする場面で、付き人が「今は舞台前でナイーブだから」というのだった。naïveは本来「世間知らずの馬鹿」という意味なのに、言語学(意味論)で云うところのsemantic shiftが起こり、いつの間にか日本語では本来の意味から変質して使われるようになったのだろうが、それが許せない。「ラスカル」は、なぜ生きている魚を川で洗うのか、という疑問である。土の中にあった芋を川で洗うなら泥を落としてきれいにする為と分かるが、もともと水の中にいた魚を同じ水で洗って意味があるのか。生きているなら逃げられるリスクもあるし。宮崎駿はこういうことにうるさそうな人に思えるが、その場面を担当していなかったのだろうか。ソニーのICレコーダにパナソニックのアルカリ電池を入れるとフルバッテリーに表示されない問題について、ソニーは電池が悪いと言い、パナソニックはICレコーダの問題だと言って、途方に暮れた。小学館は辞書の間違いを指摘したのにお礼の一言もなく、次の版からそこはしっかり訂正されていた。今と比べると認知の解像度が高かったことと、そういう話を発表できる場所(例えばサークルの掲示板や雑談)があったこともあるが、やはり正しさを信仰する態度が鮮明だったからだろう。
ぼくは大学生になってもやさぐれていて、ひようら(日吉裏側の商店街)の喫茶店で会社員の男性と口論になったり、通学中目の前数十㎝のところを無理して通り過ぎた車のボディを殴って、降りてきた人間と喧嘩になったりしていた。「電車内では電話は禁止だが、喫茶店では許容範囲だ」と言って頑張り、「歩行者優先だから車は止まれ」と言って怒鳴り散らした。別のときには酒に酔った友達(といっても11歳下の同級生)が大騒ぎして警察沙汰になり、パトカーに同乗して港北署まで付いていったことがある。警察官の対応の不手際を見つけて、「お前らまじめに仕事しろよ!」と署内で警官に向かって怒鳴っているような輩だった。正しいと思えたことがあれば何でも良かった。
ぼくは少しずつ時間をかけて、自分自身が相対化されていくのが分かった。自分の価値観や考えは絶対ではなく、間違えている。間違えていなかったとしても良い結果を生まない。自分自身がいかに野暮で尊大で粗野で横暴だったか、次第に明らかになっていった。まるで文明の世界に躍り出た非文明の獣のようにさえ思えた。ここでは無教養な人も無知な人も暴力的な人もいないのだ。シンガポールの高級リゾートで、部下を連れて肩を怒らせて威圧的に歩くようなチンピラもいない。抑圧もなく威嚇もなく支配もなかった。カフェで注文した食事がいつまでも来ないからといって、店員に横暴な口を利いてはいけない、と教えられたのはその時一緒にいた早稲田大学文学部の女性だった。この女性からは早稲田駅から高田馬場駅まで地下鉄東西線に乗ろうとしたら、「石油王にでもなったつもり?」と叱られた。この一言から、彼女の知性の高さと言葉を運用するセンスの良さが感じられ、“東京のレベルの高さ”に驚いた。ここでは誰とでも丁寧に話すべきだし、感謝するべきだし、挨拶するべきだと教えられた。技術的にも社交的にもより上等な言葉の運用が求められ、それができないとこの世界では生きていけないとさえ感じた。そういうような諸々のことが東京で生きるということだし、田舎の長男に生まれながら、田舎を捨てるということの意味するところだった。
自分自身を都会の様式の型に適合させようと悪戦苦闘していたが、あまりうまくいかなかったし、だんだん面倒くさくなっていった。大学生になってみると毎日勉強するわけでもなく、毎日プールで1km泳ぐわけでもなく、これといった目標もなく、卒業した後に行く当てもなく、かといって今さら帰れる場所もなく、ただただ世の無常を想いながら怠惰な日々を過ごしていた。慶應ペンクラブはだらだらするには居心地のよい部室で、でたらめな部誌を読んで、でたらめなことを書いて、しょうもない話をして毎日は過ぎていった。30歳を過ぎてから一般受験で慶應に入ってくるなんて、きっと何か人生のプランがあるはずに違いない、と思った人が何人かいたようだった。直接ぼくに話しかけ、そういう質問をしてくる女性がいると、「君に会うため」と云って悲鳴が上がった。この悲鳴を上げた女性の中には天文学を教える理論物理学者もいた。こうしたぼくの計画というか意図について勘違いをした女性のひとり(意識高い系のインテンシブ英語のクラスメイトだった)が、ぼくを誘って陸上競技場の緑の斜面に並んで座ってお弁当を食べたりしたが、特段なんの構想も持ち合わせていないとわかり、やがて離れて行った。唐揚げをひよ猫(日吉キャンパスに住んでいる猫)に与えた以外に、思い出せることは何もない。
その頃はちょうどインターネットが普及した時期でもあり、掲示板に散文や批評・評論などをたくさん書いた。World wide web上に公開された部誌のようなものだった。それはすでに大学内に収まらず、他大学との交流の場にもなっていた。聖心女子大学の文芸部のHPにはぼくの書いた詩が掲載され、東京大学の駒場祭には一緒に本を売りに出かけ、日本女子大学の人とは一緒に苗場にスキー合宿に行った。ぼくはあまり本を読まず、なにしろ書きたいことや云いたいことがたくさんあって、Outputばかりな状態だった。文章を書くだけではなく、三田祭(学園祭)で使う性格診断の開発も行った。これのために図書館に籠城し、数十から数百の質問を被験者に行って、そのアンケート結果から回答者の性格・傾向を分析するような心理テストを研究した。とくに参考にしたのがミネソタ多面的人格目録(Minnesota Multiphasic Personality Inventory, MMPI)とカリフォルニア心理目録(California Psychological Inventory, CPI)であり、ぼくは独自の質問から相手の性格を言い当てる性格診断を独自に作り出した。
この性格診断は真面目そうな雰囲気をだしつつ、エンタメよりのチューニングにした。この出し物(性格診断)の使い方をサークルの部員に説明して覚えさせ、一組の客に20分くらいかけるような接客方針だった。女子学生に関しては高校生の頃着ていた制服を着て来るように指示し、再び悲鳴が上がったが、「まだ捨てていないが、自分から着る機会もなく、サークルから指示されたから仕方なく着るのだ」という立場をとれるのではないかという見込みを立てた。大きな反発があったものの結局当日は有名高校の制服が並び、性格診断が当たっているか当たっていないかはどちらでもよく、それっぽいプロセスと解析の結果、否定的なことを決めつけて断言するところが受けた。いちばん多い客は女子高生だったが、複数人で来るときに誰か一人をいじり倒すと叫び声や歓声があがり、それを聞きつけた人が集まってきて入場待ちの行列はどんどん伸びていった。2時間半待ちの大行列になっても、あまり儲けにはならなかった。一組のお客様に時間をかけて接客したからだったが、やっているサークルの部員も楽しそうだったので企画して良かったと思った。
三田祭(学園祭)の前夜祭に中島みゆきが慶應義塾大学の日吉記念館にいらっしゃって、「夜行」など、ぼくのようなファンじゃないと誰も知らないような歌を何曲も披露した。中島は日吉記念館のステージで、「私が大学の学園祭に来ることはほとんどなく、よほど素晴らしいホールだからと言われて来てみたら、なんだ~ただの体育館じゃない!」と云って地団駄を踏んで悔しがる真似をしたが、ぼくはひとりで震えていた。「次に会うときはもう少しずつだけ、しあわせになっていましょう」と言った大阪厚生年金会館大ホール(京都4年目)から、ちょうど10年が経っていたのだった。