
1991年から1993年にかけて、社会一般的にはバブル崩壊が起こったと言われる。ぼくの記憶はあまりはっきりしないけれど、たぶんそれと同じくらいかもう少し遅いくらいのタイミングで、仕事が減っていったような気がする。扱う製品が一般消費者向けではなく、祭事に使う神輿や獅子舞、仏教儀礼や法要に関わる須弥壇や登高座などの荘厳具、寺院の内装や外装、神社の授与品などであるから、景気後退による経済的影響は減衰しつつやや遅れて間接伝播した。それまで依頼された仕事は一つも断らないという方針で、無限の対応能力があるとでも錯覚した経営者によって、殺人的な忙しさで寝る間もないほどの業務量だったが、それが少しずつ変化していった。
もっとも殺人的な忙しさといっても、単に業務量が多いというだけの理由ではなく、自分で自分の仕事を増やしたという側面もある。漆は硬化する段階で分子間の距離が詰まり、重合して三次元網目構造をつくる。表面的には皺や縮みとして現れ、製品にならない。また、固まるまで時間がかかり、高粘度ではあるが流動可能な粘弾性流体であるという中途半端な状態が長く続くので、この数時間で重力に引かれた流れが発生する。難しくいえば、せん断応力が表面張力と初期ゲル化抵抗を上回る。さらに他の塗料と比較して埃がつくとたいへん目立つ。埃は軽くて接触面積は極小であるが、点荷重として局所的に表面を変形させてしまう。埃の大きさが数マイクロメートルであっても、この変形は光の屈折率が高いため、そこに埃があることを増幅して人の目には強調して見せることになる。縮んでも流れても埃が付いてもダメ、キイロショウジョウバエが歩いてもダメ。ぼくが下手くそ過ぎて、どれかがダメなら検収が通らない。とくに縮みが発生すると前の前の前の工程くらいからやり直しになるので、会社全体に与えるダメージが大きく、周囲に迷惑をかけることになる。そういうわけで、ただでさえ業務量が多いのに、技術力が及ばず失敗を量産することによって、死ぬほど忙しい状態になった。
テレピン油で薄めた漆をうすっぺらに塗るなら誰にでもできるし縮んだりしないのだが、そこには美しさがない。分厚い漆をむっくり載せて、製品の重さが変わるくらいの重量を塗布し、どこにも無理がかからないように固めるからこそ、人の顔が映る鏡のように美しい仕上がりになる。しかしそれは一歩間違えれば修復が困難なくらい三次元網目構造が発生して大惨事となる。ぼくの心が失敗を恐れ、自信を失い、不安な気持ちで製品に向かうと、その心の怯えが漆に反映される。比喩的な意味ではなく、本当に漆はぼくの心の在り方をそのまま映し出した。技術というより、精神的な安定感を自ら制御できないと達人の域に達しない。
問屋が期待する美しい仕上がりの製品にするには、ぼくの心が平穏で安定していることが重要な問題だった。一度でも失敗すると納期に間に合わなくなるという重圧の中で、怯えも恐れもないフラットな平常心を保ち、のほほんとしながら向き合える心理とでも云おうか。慌てることもなく焦ることもなく、それでいて失敗するかしないかのぎりぎりの線を攻められること。埃が舞わないように空気を動かさず、太極拳のような体重移動と深い呼吸で、製品の形状と漆の重さ、その日の湿度(固まるまでの速度)から曲面の流れを計算する。見たいところがあっても簡単に首を動かさず、目だけ動かして確認する。それほど空気を動かさないことを意識している。
その結果、出来上がった製品を見て、およそ12時間前の自分のパフォーマンスを確認することになる。製品に落ちる蛍光灯の光が滑らかな自由曲面を描きながら、とろけるような形状に従って伸びていく。埃が落ちて歪んだ場所がひとつもない。重力に引かれて流れた場所も一か所もない。高湿度の空気によって自然凝固した漆は意匠曲面をやわらかにコーティングし、見事な仕上がりとなった。そういう製品をさまざまな角度から点検し、やっと少しだけ口の端がかすかに上がり、12時間前の自分の仕事に満足することができた。
そういうこともあり、最初の3年くらいは激務が続いていたのだが、景気後退による業務量の減少と同時に自分自身のスキルの上昇によって、仕事の過酷さは軽減されていった。心技体が充実した状態に近づき、ぼくは自信を深めていった。ぼくは気位が高く、負けず嫌いで、自信過剰だった。
どれだけ失敗しても、会社としては、ぼく以外の選択肢はなかった。むしろ漆が縮む(三次元網目構造を形成する)のは、極限の「美しさ」ぎりぎりを追求した結果でもある。すでに他の職人が何年かけても到達できない領域に自分がいることを知っていた。京都の重要文化財の寺院の仕事も国宝級の仕事も宮内庁の仕事も、頼まれるならやってあげようか、くらいに思っていた。ぼくに塗ってほしければ、列に並んでもっと頭を下げろと言わんばかりの態度だった。じっさい天皇陛下の玉座を洗朱(という漆)で塗るのは自分でなければできないし、京都府知事賞の優勝など複数回取らせてもらったが、その程度は当たり前だと思った。いつも副知事が荒巻知事の代行で賞状を授与するのが気に入らないとさえ思った。ぼくは立派な車に乗っているわけではないし、高価な装飾を身に着けているわけでもなかったが、そういうものを欲しいとさえ思わなかった。立派な肩書や所有物がないと尊敬を得られないような気の毒な人間ではなかった。ぼくはすでに会社を成長させる推進力を発生する高性能エンジンを自分の中に内包していた。
そういう自信過剰なところや大物ぶった尊大な態度は、周囲の大人から好かれないし、可愛がられない。しかし他者から可愛がられないことによる損失など無視して良いと高を括った。じっさい漆塗りの美しい仕上りは評判となり、それが業界に波及して仕事が殺到し、京都の観光名所になっているような寺院の荘厳具はほぼすべてぼくの塗ったものになった。ぼくはますます生意気になって天狗になった。隣の会社(金具屋)の会長から「こまっしゃっくれやがって」と言われたこともある。「こましゃっくれる」というのは関西の古い言い方らしいが、自分を賢く見せ、小生意気で気取った様子という意味である。ぼくはそういう批判を受けても全く意に介さなかった。たいへんふてぶてしい態度で、会えば微かな会釈をする程度で、口を開いてもひとつも尊敬語は使わなかった。相手からしてみたら、ぼくのような若造はもっと謙虚で、もっと老人にぺこぺこすべきだと思っていたのかも知れない。でも当時のぼくは、敬意を表すにはその根拠が必要だと考えていた。目の前の老人が60歳なのか70歳なのかは知らないが、それまでの人生でどれだけのことを成し遂げてきたのか、テーブルの上に並べて見せてみろ。そうしたら、ぼくはそれが尊敬に値する業績かどうかをひとつひとつ検証し、尊敬に値すると判断できれば、そこで初めて敬意を表そう。
そんな考え方をしていたので、誰からも好まれるわけはなかったし、憎まれもしたし、敵も作った。世の中には偉い人も偉そうな人も偉く見せたい人もいるものだが、本当に偉い人は少数派で、大多数はそれ以外だった。それ以外の大多数は、立派な肩書や付加価値の高い属性や所有の付帯と増設に明け暮れ、立派であることの説得力強化を目指した。しかし、その大多数に向かって、目の前のテーブルに偉大さの根拠を並べろと言われればそれは屈辱以外の何物でもない。展示品の乏しさを指摘されているからであり、それを指摘する人間に好感が持てるわけはなかった。ぼくはそういうひねくれた思想をもって周囲の大人たちを見下していたので、相手を不愉快にして疎ましがられた。でもそのコミュニティで必要か必要ではないかといわれれば、業務上絶対必要となるような立場であり、好ましくはないが排除もできないといった人間関係の中にいた。
仕事ができるようになればなるほど、ぼくには自分に競争相手がいないことを認識した。ぼくが離脱すればたちまちこの会社は困窮すると自覚した。社長は相変わらずぼくを抑圧し、暴力によってコントロールしようとしたが、ひとりだけでぼくを叱りに来るというよりも、誰か賛同者を引き連れて何人かでぼくに対峙しなければならなかった。賛同者は社長の味方であり、社長の後ろでうなずくだけの仕事であったが、社長にとってはそのうなずくだけの友軍を従えていることが心の不安を取り除く役に立ったのだろう。もはや社長にとって、ぼくは脅威になりつつあった。社外の取引先やコンペティターよりも、社内のこの重要な戦力が自分に逆らったり、会社を立ち去ったりしたら、とても面倒なことになる。現行品質で製品が納品できなくなれば現在の仕事の流れが止まり、会社が立ち行かなくなる。社長が取引先と強気な受注条件交渉ができるのは、ぼくの上塗りの高品質があるからであり、それがなくなれば相手に頭を下げて「お願いして仕事を頂く」という立場に戻ることになる。
ぼくへの依存が増せば増すほど、そんな不安が大きくなり、そういう弱みは隠しておかなければならなくなった。ぼくなど取るに足らない人間で、いてもいなくてもどちらでもよく、技術的にもまだまだ未成熟で、仕事も話にならない、叱ることは山ほどあるし到底自分の足元には及ばない、そういう立場を社長は取らなければならなかった。けれどもその時はすでに、社長が技術的にぼくに教えることができることは何もなかった。そして何もないことを社長は知っていた。社長は、ぼくに「人間は素直さと謙虚さが大事だ」と繰り返すようになった。ぼくが社長に素直に従うという前提が、この会社の存続のためにぜひ必要であるからだ。「お前のために言っている」と繰り返し強調したが、そうではないことを知っていた。ぼくは阿呆のように何にも気が付いていないふりをして、反復性の高い説教に辛抱強く頷き続けた。
ぼくは周囲の大人たちにまるで興味がなかったし、世の中のことにも疎かった。近所の彫刻家の先生は何度もぼくを自宅に招待して、自分の将棋の相手をさせたのだが、その先生の顔さえ思い出せない。ニュースや天気予想にも関心がなかった。下地の職人は、今会社の前を通った人はどの会社の誰だとか、誰と誰がどういう関係であるとか、どういう車に乗っているかとかそういうことにやたらに詳しかった。フランスの大統領がミッテランからジャック・シラクに変わったときは、どういうわけか大興奮していた。「なにしろシラクはドゴールの弟子だからな!」と繰り返し叫んでいたが、だとしたらどうだというのかさっぱり分からなかった。
そのころぼくの興味は原稿用紙に文章を書くことで、映画のとあるシークエンスを文章で表現するのが好きだった。「オズの魔法使い」でドロシーがスケアクロウと出会うシーンや、大林宣彦監督の映画「ふたり」で中嶋朋子が事故に遭って亡くなるシーンを何度も書いて、上手く書けないと思って破り捨てた。本当はSHARP X68000で書ければ良かったのだが、現在のMicrosoft wordほど強力な文書作成ツールは存在していなかったので、紙に書くしかなかった。あるとき社長と社長の友人がぼくの部屋に来て原稿用紙の山を見て、「なんだこりゃ」と言って、意味不明な趣味を理解できず、「頭がおかしい」と結論付けた。彼らにとって「頭のおかしくない」趣味とは、ギャンブルと風俗で遊ぶことである。
1990年代半ばにかけて、バブル崩壊による景気減退もはっきりした現実問題として、より深刻な影響を及ぼすようになってきた。社長が気にしていたのは、どちらかといえば世間の視線であり、どのように見られているかという他者の目だった。他社が残業しなくなり、定時を早めたりする中で、自分たちは忙しいのだということをアピールしたかった。深夜まで窓の明かりがついていて、仕事が忙しいということを見せつけたかったのだ。もっとも、誰もそんなことは気にしていないと思われたが、そういう指摘をすると、数時間(場合によっては数年間)繰り返し怒られ続けることになるので、迂闊なことは言えなかった。
この人の叱責は同じことを何度も繰り返すので、聞いていてつまらない。本人は、何度も繰り返しているうちに気分が昂揚し、自分の言葉に自分で興奮してきて、一定のラインを超えると口だけでなく手まで出ることになる。反復性の高い説教には新情報がなく、ぼくの理解と共感は得られないのだが、つまらなそうな顔をするとつまらない話が長引くので、社長の意見に賛成し、同調するしかなかった。深夜まで煌々と明かりをつけていると世間の人は忙しいのだと感嘆するに違いない。ばかばかしいと思いながら、社長の意見に賛成の立場をとった。世間から仕事がないと思われているのではないかという恐怖を社長は抱いているのだから、その恐怖を取り除いたり和らげたりすることが正しい対応だったのだが、当時のぼくはそういうことが案外重要な仕事であるということを理解していなかった。
いずれにしても、毎日そんな調子で何もすることがないのに忙しそうにして、深夜までそうした会社方針に付き合わなければならなかった。意味のない労働をひたすら反復させるのは精神崩壊をもたらす刑罰のようだった。あほらしいと言えばあほらしいのだが、深夜まで仕事らしいことをやっているふりをすることで、社長の心は多少落ち着くのだった。やがて富永み~なや日高のり子がパーソナリティを務めたKBS京都の深夜ラジオ「はいぱあナイト(22:00~0:00)」が終わってからやっと、そろそろ終わりにしようかなという段取りであった。資材は空っぽで、手に取れるような製品もほぼない状態で、それでも仕事がないことに誰も気が付いていないかのように振舞って、暇そうにしていることを社長に気づかれないように気を使った。そういう日常が、ぼくにとってのバブル崩壊だった。