まっすぐな屈折10


中島みゆきは「時代」の中で、なぜ「故郷に帰る」ではなく「故郷に出会う」と歌ったのか。その違和感に気が付く人は気が付くし、気が付かない人は気が付かない。春になるたびにどこかからこの歌が聞こえてきた。出会いと別れの季節の節目に、この歌は聞こえてきた。「旅を続ける人々」は「故郷に出会う」ことを目的として歩き続ける、故郷という場所を目指して人々は旅を続けるのだという。

しかし故郷とは生まれ育ったふるさとのことではない。これからパートナーと出会い、子供を産み育て、次の世代の彼らにとっての“故郷と呼べるような場所”のことである。つまり故郷とは過去にあるのではなく、未来にある。それを建設することが旅人の目的であり、だから過去の故郷に帰るのではなく、まだ見ぬ未来の故郷に出会わなければならなかった。そのために“果てしもなく冷たい雨が降っていても、きっと信じてドアを出る”のだ。生まれ育った故郷に帰るのは簡単だが、未来の故郷にたどり着ける人は多くない。大勢の旅人が人生をかけてその旅に出発し、相当数の旅人がたどり着けずに倒れていった。出会うこともなく旅路を終える人もある。それでも、次の世代にとって故郷と呼べるような場所を建設するために、人々は歩き続ける。そしてその旅路のことを、中島は一言で総括した。「時代」であると。

漆でごわごわになったジーンズをはいて、埃が舞わないようにナイロンのウィンドブレーカーを着て、同じビルの中の階下にある職場に向かった。階段を降りるのが出勤であり、階段を上るのが帰宅である。毎朝自分の部屋のドアを出るとき、外出用のヨネックスのテニスシューズを一瞥した。何年も履き続けて疲弊した靴は左と右が不均衡に脱ぎ散らかしてあり、両方の踵と踵、つま先とつま先の4点からなるいびつな四角形を記憶に刻み、次にこのいびつな形状を見るときはどんな気分で眺めるだろうかと想像した。おそらく13時間か14時間後に仕事から帰ってきたときに、両方の靴の位置関係を見て、出かけるときの気持ちを思い出せるだろうか。今日は一つも失敗せずに済んで良かったと思えるだろうか、一度も社長に殴られずに怪我をしないで帰って来られるだろうか。そして再び部屋に帰ってきたころには、その薄汚れたテニスシューズを見て少し照れくさそうな表情で「だめだった」と心の中でつぶやくのだった。そういう一日一日を繰り返し、両方の脱ぎ散らかしたスニーカーの位置関係や角度や向きを心にとどめ、その記憶を尺度に使って、自分の気持ちの変化や揺らぎを計測しようと試みていた。

このドラマティックでもロマンティックでもない日常が、もしかしてなにか壮大な旅路の小さな一部分であるという可能性はないこともなかったが、いつかそれを笑って振り返ることのできる日々が到来するとは、どうしても信じることができなかった。それはひとつの「時代」であったと総括できるような日々がやってくるとは、どうしても思えなかった。結婚することや家族を形成することなどは考えてもみなかったし、そもそも自分が年を取ってやがて若くなくなるということさえ信じられないことだった。したがって、次の世代の人々にとっての故郷を建設するという目的とそのためのアプローチは全く現実的ではなく、ただただ生まれ育った町への帰郷について想いを馳せるだけだった。ぼくが行きたかったのは、過去だった。20歳の時に出会った二人の作家、中島みゆきと谷山浩子は、上手く説明できないけれど、対照的だった。中島は「向かい行くべき処」であり、谷山は「帰り行くべき処」であった。その両方がなければ、ぼくは20代を潜り抜けることはできなかっただろう。

知恩院にいても銀閣寺にいても、広島や岡崎に出張したときも、天草にいても函館にいても、帰郷までの日数を数えてばかりいた。故郷とは帰るものであり、出会うものではない。目の前にあるあまりに圧倒的であまりに大きすぎる現実問題が、未来まで考える余裕を奪い去った。「時代」の違和感に気が付けたのは、読解力や感受性が高かったからではなく、単純に早く故郷に帰りたいという自分の希望に沿わなかったからに過ぎない。後になってそれを誰かに話すときは、まるで国語力の低い人には気が付かない、かのような云い方をしていたのは、自分を賢く見せたいという虚栄心からの潔くない態度であった。その後に出会った何人かの優秀な女性は、ぼくのそうした部分を見抜いていた。そしてぼくはそれを見抜かれていることを知っていた。


仕事場に新人が入ってきたのは、ぼくがある程度の水準にどうにかたどり着こうとしている頃だった。下地の方であれば、次々に新しい人が入ってきて次々に辞めていくのだったが、塗り場に新人がくることは珍しい。その人はぼくより若かったが、将来社長の後継者になる予定の人物だった。というのは社長が引き取っていた女性の子供で、社長と血縁はなかったものの将来養子縁組する予定だということだった。社長は後継者を特別扱いしたし、本人もプライドと自意識が高かった。社長はクラウンからプレジデントに乗り換えたときに、そのクラウンを跡取りに引き継がせたので、彼は18歳にしてV8・4Lの高級車に乗ることになった。一方、社長はぼくの貯金を勝手に使ってほしくもない軽自動車をぼくに買い与えた。ぼくのお金を使っているので「買い与えた」という表現は妥当ではないかも知れない。社員の給与の一部を会社が管理し、社長が自由に使えるようになっているところがブラック企業なところであるが、その時すでに会社の売上を左右する立場に成長してきた人間にそれ以上偉くなられては困るわけだし、「若いときから良い車に乗るな」と言ってぼくには謙虚さを求めた。当時まだアイドルだった石田ひかりが「価格もミニだよ!」とCMで訴求しているような軽自動車がぼくにはぴったりだというわけで、会社の後継者と10年間の暫定登板役のぼくの間にあるステイタスの違いを明確にするための政策として役立った。

もっともその660ccの軽自動車は、どうも新車なのにトランスミッションの調子が悪く、最初から3速でクラッチをつないでどうにか発進するといった有様で、その後もずっと3速のままで、スピードが増してもギヤ比を下げようとしない。最初は軽自動車の4ATとはこういうものなのかとも思ったが、やっぱりおかしいということで自動車修理に出したら、しばらく預かり状態となりかなりの期間帰ってこなかった。後になって三菱自動車工業のリコール隠しの問題が発覚したのだが、ぼくの乗っていた「価格もミニだよ!」はその事件と直接の関係があったのかなかったのかよく分からない。

2年、3年と経過していくことによって、社長が自ら上塗りを行うということはほぼなくなった。大型案件も高難易度の仕事もすべてぼくが一人でやった。社長からしてみたら、たいへんストレスのかかる上塗りから解放されて、会社の営業的なところに力を入れられるようになったのが大きかったはずだ。そこで職人たちは誰も知らない事柄について経験を積んだ。つまり仕事を受注するときの交渉ひとつで儲かり方が圧倒的に違ってくるというビジネスの難しさや面白さについての発見であり、受注条件が良くないと、どんなに時間と労力をかけても利益にならないという営業の重要性を今更ながらに社長は理解した。今更ながらにというのは、それまでは問屋から仕事をもらうだけの立場であり、製造部門としての高品質の追求だけが価値のすべてだった。ところが、営業部門としての受注条件がより一層会社の利益を左右する問題であることを発見したのである。製造責任はぼくに任せて品質を厳しくチェックすれば良く、自らは必ずしも問屋を通さないで、資産家のエンドユーザー(寺院の住職など)から大きな利益を上げていた。

あるとき社長は新潟の実家に電話をかけ、ぼくのことで父と話をしていた。ぼくが新潟に帰ったら父が職人仕事から解放されると思ったら大間違いで、むしろぼくは営業に向いている。今は仕上げ工程・上塗りをやっているが、仕事を取ってくる方の役割をやるに違いない。こいつは外交的で、言葉で仕事を取ってくる。取って来た仕事はこれまで通り父が行う。だから息子が新潟に帰っても、職人の仕事を続けなければならない。そういうことを社長は父に言っていた。電話を切った後で、社長はぼくにも同じことを言った。ぼくは、そのとき意味がよく分からなかったし、その仕事に製造部門的であれ営業部門的であれ携わるつもりはなかった。社長が見出した営業の重要性とぼくの中にあるその営業的な資質について、ぼくは過小評価していた。

月日の経過によって、会社の中におけるぼくの立場はきわめて重要なものになっていった。何も仕事をしないで休める日ができたし、塗り場で音楽やラジオを聴いていられるようにもなった。相変わらず、社長は暴力をふるったし、ぼくが権力化しないように、偉くならないように細心の注意を払った。今の会社の状況は、社長がいっさい上塗りを行わなくなったので、ぼくに依存している状況であり、社長はそれを悟られたくなかった。包帯をぐるぐる巻きにしているのに怪我していることを悟られたくないといった、わざとらしい鈍感さを装わなければならなかった。この状況を継続するには、ぼくを完全に制御することが必要であり、思い通りに従わせることが必要だった。もしコントロールできなくなれば、根底から今の体制が瓦解することが明白だった。ぼくは何も知らないふりをして、自分が重要人物になっていることに気が付かないふりをして、親方に従うだけの立場を継続したのだが、ときどき気が緩むと、つい「ばかばかしい」とか「ばかじゃないの」という心の声が表情に現れるので、そのたびに殴られるのだった。それは社長がそうしたぼくの些細な変化を恐れていることの裏返しでもあり、従順さを失ったら大変なことになる、ということを最大級に警戒していたことを意味する。

一方で、将来養子縁組して跡取りにしようとした人物はまだ18歳で、本人の口からきいた話によると、中学生の時は大変な不良であり、全校生徒から恐れられていたのだそうだ。廊下を歩けば全員が一列に並んで頭を下げるという話で、夜間高校の入試問題は無記名でわざと不合格になり、同じ職場に合流したということだった。彼もまた社長と同様に、なんでも言うことを聞く自分の制御対象としての役割をぼくに期待したところがある。同時に、友達や父親や兄貴のような役割も期待されていると感じたが、ぼくはあまり親密な関係になることは得意でなく、ある程度の距離を保って接していたような気がする。仕事に関しては知っている限りのことを教えたが、ぼくが京都にいた期間中、最終工程の担当を取って代わられたということはなかった。どちらかと言えば、この人は会社経営を行うのであって、外交的・営業的な資質が重要だと思った。本人がそれを好むかどうかは別問題だったが。結局、その後どうなったのか、ぼくには知る術はない。ぼくがいなくなった後で、彼が社長の後継者として会社を存続させているのか、分からない。人生はどう転ぶか分からないから、上手くいっても行かなくても健康で元気でいてくれれば良いのかなと思う。ぼくの影響を受けて部屋に並べたエラリー・クイーンの小説を読んでくれているとうれしいのだが。

仲の良かった下地の職人も会社を去り、それ以降、友達らしい友達もいなくなった。昔から飲み屋に行くという習慣もなく、外で飲酒することもほぼなかった。最初の頃にちょっと背伸びしていろいろな店に入ってみたことはあったが、習慣として定着しなかった。日常的には夜間の外出が多いので、どれだけ警官に止められ職務質問されたか数えきれない。休みがあってもいつも単独行動で、どこに行くのもひとりだった。

1994年8月16日、全国高校野球選手権(夏の甲子園大会)2回戦で新潟県代表の中越高校がセカンドとセンターの間に落ちる決勝打で、埼玉県代表の浦和学院にサヨナラ勝ちしたときに3塁側のスタンドにいたが、その感動を誰にも共有できなかった。1995年に京都の醍醐スケートリンクにプリンスアイスワールドを見に行ったこともある。出演スケーターは花束を受け取り、何度も挨拶し、退場していった。すべて終了して観客も出口に向かって歩いていると、最後の最後に一人の女性が受け取った花束を氷の上において、上着を投げ捨て、アイドリングをはじめた。出口に向かう観客が足を止めて何が起きるのかと見守ると、アイスリンクを対角線に滑走した彼女が目の前で高いジャンプを跳んだ。それが初めて見た伊藤みどりのトリプルアクセルだった。このときもひとりだったので、その驚きを誰にも共有できなかった。アクセルの着氷で深くえぐられた氷の傷が今も印象に残っている。中島みゆきや谷山浩子のライブに行ったこともある。中島は「次に会うときは各々、今より少しずつだけ幸せになっておれ」と言い、谷山は「私の風邪はカトマンズの風邪、私から感染した皆さんの風邪はただの風邪」と言った。

それらは深夜以外に活動した数少ない記憶であり、「価格もミニだよ!」に乗って、走り回った記録でもある。今となって振り返ってみれば、紛れもなく一言で総括できる。「時代」であったと。

, , , ,

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です