
当時、明石海峡大橋はまだかかっていなかった。京都市営地下鉄東西線も開通していなかった。瀬戸大橋は開通していたが、それは岡山県の倉敷と香川県の坂出を結ぶ鋼橋で、神戸から見ればはるかに西側のことである。淡路島に行くには神戸市の舞子から出ていたカーフェリーに車ごと乗って淡路市の岩屋に渡るのだった。そのカーフェリーも夜間便であり、舞子を出港してからキャビンを出ると、船の後方デッキには人だかりができていた。人が集まっているのは、神戸の街灯りが見えるからで、摩耶山の光、ポートアイランドの光、まだ造成中だった六甲アイランドの明かりが見えた。
神戸は平地が狭く、住宅地や商業地が山の斜面にまで広がっている丘陵都市の典型で、夜になると街灯りが水平方向だけでなく、垂直方向にも伸びている。段丘状に灯りが重なり合う立体的な夜景は美しく、同じく丘陵都市の典型である尾道と比較すれば、その人口は10倍以上で、経済規模は遥かに大きい。六甲山と海の標高差700mには高密度に集積された都市が夜間にも経済活動を続けていた。神戸大学六甲台キャンパスか、甲南女子大学の灯りが見えたのかも知れないし、JR山陽本線の電車の帯状の光が見えたのかも知れない。海面すれすれには、当時新交通システムと呼ばれたポートライナーの明かりも見えたかも知れない。そんな神戸の街灯りを背にして、船は暗闇の瀬戸内海を進んだ。カーフェリーは全長100mほどで、80~100名の乗客と50~60台の車両を乗せ、約16ノット(時速30km程度)でのろのろと明石海峡を渡った。
ぼくは神戸の街灯りとは反対方向のオープンデッキにひとり立ち、固体なのか液体なのかも分からないような夜の海を眺めていた。低回転でも強力なトルクを発生する三菱重工か川崎重工製のディーゼルエンジンの振動が船の舷側に取り付けられた艤装の手すりに伝わった。水冷エンジンには冷却水を循環させるためのポンプが動いているし、デッキの自販機にも冷却用コンプレッサーが稼働している。でもそれらの音は、水深4~5mの船体が海を切り裂き進む波の音と、海風の音にかき消された。夜になると海より陸地の方が先に冷える。冷えると空気密度が上昇して気圧が高くなるが、海は比較的空気密度は低いまま。気圧の高い方から低い方へ風が吹くので、それは海風ではなく陸風(陸から海に向かって吹く風)だったのかも知れない。遠くに別の船の灯りがちらと見えたかも知れないが、夜の海には他に光源もなく、どこまでが空でどこからが海なのかといった水平線も定かではなかった。すぐ真下の船底の方に目をやると白く泡立つ波がうねりながら広がっていくのが見えるだけで、そこから先はどこまでも闇で何も見えない。古くて熱い夢の数だけ、砂の船がゆく。誰にも発見されず、誰にも気づかれず、音もたてずに夜の海に溶けていく。そんな中島みゆきの歌詞を思い出しながら、見えない砂の船の崩壊を夜の闇に探していた。
今から当時のことを振り返ると、明るい昼間の記憶があまりなく、どの場面を思い出そうとしてもいつもそれは夜だった。夏も冬も秋も春も、暗闇の中に取り残されているようなそんな風景しか思い出すことができない。商店街はいつもシャッターの下りた閉店後の佇まいで、深夜に営業を続ける一部の店だけを認識していた。珍しく昼間に外出することがあると、生活圏の中でも、知らない店がたくさんあることに驚いた。会社の寮で寝泊まりし、ビルの中で生活と仕事が完結するので、仕方がないといえば仕方がなかった。昼間の記憶があまりないのは、外出する時はいつも夜だったからかも知れないし、心情的に暗い時代だったからかもしれない。
将来使うことのない技術を必死に極めようとする半信半疑の修練、あまり意味のないことに全身全霊を傾けているという虚無感、きわめて理不尽で暴力的であるとはいえ親方の期待を裏切ることになる罪悪感、このようなことになった両親への復讐、はっきりした希望を言えず方向性も打ち出せなかった自分自身に対する絶望。もはや一般的な人生はあきらめるより仕方のないといった諦念と、貴重な時代が刻々と失われていくという焦燥、そして誰も知らない夜の海に音もなく溶けていく砂の船のイメージ。どこかから聞こえてきた有線放送のポップスがあまりに軽薄すぎて、何を云っているのか理解ができなかった。
何かの目標を持って無我夢中で走り続けていたらいつの間にか通り過ぎ、時折立ち止まり振り返ってみたら遥か彼方に光り輝く時代を眺めることができる。そういうまっとうな年の取り方ばかりとは限らない。東に向かいたいのに西に向かって逆走し、故郷を目指して異郷を彷徨い、獲得を目指して喪失し、建設しようとして朽ち果てる、追いつきたくても遠ざかり、上昇を夢見て下降する。挽回しようとして差は開き、進みたくても後ずさる。無為の螺旋を逆流し、崩壊への遍路に帰結する。そうであっても、それをひとつの時代と呼べたのだろうか。あとになって呼べるのだろうか。あまりにそれは夢とは異なり、あまりにそれは現実と異なった。それでもそれを「時代」と呼べてしまうほど、達観することも俯瞰することもできなかった。
周囲の人間はそんな状況の中に居ても何の不思議も感じないといった風情で、各々の人生を生きていた。ぼくはひとりだけでいつまでも逆流の只中で取り残されているような気がした。人生ゲームのすごろくで、どんなに先に進んでもやがて自分だけスタート地点に戻ることになるのを知りながらルーレットを回し続ける気分とでもいえばよいだろうか。他人の人生を豊かにするための道具になって、他人の経済に寄与し、他人の生活を豊かにし、他人の自尊心を満足させ、他人の自惚れを増長させ、他人の無能を隠ぺいした。どんなにコマを進めてもやがて振出しに戻るので、いつまでもスタートを切れないで、その場で途方に暮れている。いつかそれが一つの時代として振り返ることができるようになるとは、どうしても思えなかった。
そういうこともあり、1992年にロン・ハワード監督の「遥かなる大地へ(原題:Far and Away)」を河原町のオールナイト上映で観たときは、映画館で声をあげて泣いた。19世紀のアメリカ・オクラホマ州で土地獲得レースに参加した貧しいアイルランド移民のトム・クルーズが、誰も選ばなくて売れ残った暴れ馬に乗ってレースに参加するが、馬は逆走し、反対方向に向けて走っていく。制御できない馬に乗って、他の参加者との距離は拡大して行く。しかし、あるところで馬は正しい方向に向き直り、走りはじめると物凄いスピードで先行者を追走し、あっという間に次々と追い抜いていく。この場面が映画ではめったに使われない70mmパナビジョン(通常は35mmフィルム)で表現されるのだが、それを観て感極まった。映画の感動とは作品の良し悪しだけではなく、それを受け止める観客の経験や心情が決定づける。その時のぼくにはこの報われない主人公が非常に象徴的に見えたのだ。とはいえ現実問題として、10年のブランクを経て正しい方向に走り出したとして、間に合うのかと問われれば、とても間に合いそうになかったし、追いつけるのかと問われれば、とても追いつけそうになかった。また、そもそも何をめぐる競争なのかもよく分からない。世間一般的な年齢で大学を卒業し、世間一般的な年齢で就職した人達に対して、何に追いつければ良いのだろうか。どうすれば追いついたことになるのだろうか。
依然として明確な目標はなく、こうなりたいという希望もなく、はっきりした夢もない。何も決めていないくせに、自分で決めたことを行うことに憧れた。父の跡を継がなければならないとか、親の選んだ場所で親の決めた仕事をするとか、親戚一同で推薦したことを行うとか、そういうことが気に入らないのであって、内容はさほど問題ではなかったような気もする。たんに就業のプロセスや根拠が気に入らなかっただけかも知れない。高校生の頃、分水の寮にあるとき母が訪ねてきて、地元の私立大学の入学案内を持ってきた。ぼくは怒ってそれをそのままごみ箱に捨てた。東京の私立大学には行かせることはできないけれど、地元の私立大学なら行かせることができるという意味なのだろうが、ぼくにとってはそういう問題ではない。父と母が話し合って経済合理性を考え、妥協案としての提案だったのかも知れないが、ぼくにとってはそういう問題ではないのだ。自分で決めたいのであって、周囲にあれこれ言われたくもないし、決められたくもないのである。それから何年経っても、あのときわざわざ持って行った新潟産業大学の入学案内をぼくがごみ箱に捨てたということを繰り返し母は責めることになったが、ぼくは父と異なり母の制御対象ではない。箸の上げ下げまでとやかく言うような母の管理下に置かれるつもりもない。自分は外に出て働いたこともなく、ローカルな地元のコミュニティでの対人関係をもって世間を知っているかのように感じているなら、それは錯覚だ。というか、燕市にいた大人たちは多かれ少なかれ、たいていはそのようなものだった。
もっとも、世間知らずな地方社会の大人たちの中で、ぼくだけがそうではなかったという意味ではない。1980年代も90年代も、あるいは2000年代になっても、ひょっとすると2010年代になっても、ぼくは世間知らずだった。世間知らずの判断は不正確で、失敗が多く、結果が良くないことは多い。そうではあったが、どこに行くか、何をするか、は自分で決めたかったのである。たとえ失敗が少なかったとしても、他人の決めたことを受動的に受け入れて従うだけの人生は我慢できない。周囲には、他人に決めてもらいたがる人間が案外多いことに気が付いて驚いた。自分で考えず、自分で判断せず、誰かの決めたことを受動的に受け入れるだけのような人間を馬鹿だと思った。一方で、自分の考えと価値観を他人に押し付け、相手を従わせようとする人間は、なおさら軽蔑した。たかが経営者の分際で、まるで王様になったかのように振舞い、自分の知能レベルの低さを基準として、暴力を持って社員を従わせようとする人間はどうしようもない。
ただし、他人の言いなりにはなりたくないとはいえ、自分で決めたことが必ずしも正しかったというわけでもない。ぼくは他人以上に世間知らずだったので、判断の妥当性はなく、正しくもなく、結果が良かったわけでもない。ぼくはどの大学でも良かったし、どの仕事でも良かったし、誰と結婚しても良かったのである。たんにそれを自分で決めたかっただけだ。自分で決めさえすれば何でも満足できたのであり、その結果はどうでも良かった。ものすごく適当な理由でなんでも決めるので、後になって苦労する。1997年の12月に大学受験をはじめようとしたとき、1年で上智大学に合格することを目標としたのだが、それはなぜかというと、NHKラジオ第2放送「英会話入門」に出演していたLoretta Cataldoさんが上智大学の大学院に行っていたから、というただそれだけの理由だった。ただそれだけの理由だったが、「自分で決めた」のだから、それでよかった。結局、上智大学には合格できなかったのだが、たとえ低空飛行でも自分で決めた人生を往く手応えはあるものだ。
みずからの翼のみにて舞い上がる鳥は、高くを飛ばず。
とでもいったところだろうか。
京都を訪れた最初の日に京都第二タワーホテルのロビーにいた女子高生は、今頃京都大学の卒業が間近で、政府系の金融機関や外資系コンサルティングファームなどを目指しているかも知れない。ぼくはその日、仕事を終えてから京都を出発し、神戸からカーフェリーに乗って淡路島に向かう。くたくたに疲れているが、寝ないでアジを釣るためだ。サバかイワシもかかるかも知れない。王様のような経営者が行くと言えば行くのであり、断るという選択肢はない。つまらなそうにしても眠そうにしても殴られるので、元気で楽しそうな振りをして、夜通しアジを釣るのだ。他人に決められた線路を降りて、軌道を離れる日のことを考えながら。