
早朝の4時30分に降りたホームは、真っ暗で人影はなく真空のような寒さだった。ブルートレインの終着駅は闇に包まれた地方都市の雪の中で、空気がとても乾いていた。うすぼんやりした明かりの灯るホームに設置された待合室に入ってみても、待合室の外とあまり違いが感じられない。エアコンがあるわけでもなく、ストーブが燃えているわけでもなかった。鉄骨と薄いパネルの貧相なプレハブ建築でしかない待合室は、アルミフレームが歪んだ引き戸は完全に閉まらず、隙間から風が通り抜けた。マフラーもなければ手袋もない。漆に汚れた両の手をコートのポケットに突っ込んで、首をすくめて始発を待った。駅の周辺には黒いビルの影と疎らの街灯がある程度で、見渡す限り暗闇に覆われている。凍り付いた誘導合図灯とホームの青白い蛍光灯、それ以外は町全体を覆う夜明け前の暗闇の中で、しかし微かにどこか懐かしい空気を見つけたような気がしていた。
かつて「日本海」と呼ばれた寝台特急は、1989年の12月30日、夜10頃に京都駅を出発し、約360kmの距離をのろのろ走って、朝4時30分頃に新潟県上越市の直江津駅に到着した。ホームの高圧水銀ランプが青白く冷たい光を投げており、冬の雪景色に白く反射していた。安物のコートのポケットの中で握りしめていた切符は、2等寝台の東三条行。プレハブ小屋の中で始発の信越本線の普通電車を待つ時間が、寒さのために途方もなく長く感じられた。そのくせ、こうしている時間がたいへん貴重なもののようにも感じられ、時間の経過が惜しまれた。みすぼらしい待合室で凍えている時間が早く終わってしまえばいいのにと思ったし、永遠に続けばいいのにとも思った。次の瞬間が待ち遠しく、今この瞬間が名残惜しかった。かつては激しく嫌悪した土地であったが、少しでもこの空気を吸い込もうとしたし、少しでもこの風景を記憶に焼き付けようとした。
そのあと何年もの間、あるいは何十年もの間、このときの直江津駅の風景が、夜明け前の大晦日の情景が、繰り返し夢に現れるようになった。それは帰郷ではなく、旅立ちの場面だった。誰もいない真っ暗な駅のホームに高圧水銀ランプが一つだけ灯っていて、その下で大きなスポーツバッグをもって電車を待っている自分がいた。見送りの人は誰もいない。ほかの乗客も誰もいない。到着や発車を知らせる何のアナウンスもない。深い雪の静謐な暗闇の中で、駅のホームにひとり立ち続けている。居心地のよかった場所から離れなければならず、もしかすると2度と帰ることはできないかも知れない。同行者もいなければ見送りの人もいない。そこに居続けても居場所がなく、歩き出す以外に選択肢がない。旅立ちの場面は「別れ」と云うが、別れる相手さえ見つからない。水銀灯の青白い光の下で、凍えて佇んでいる自分の姿を反対側のホームから見つめることもあったし、空から見下ろしているときもあった。はっと目が覚めて、それが夢だったと気づいた。その場面はもはや過去のものとなったと知ってほっとした。やさしさと恐怖が入り混じった寂寥感が、どう言い表していいのか分からない感情が、記憶の全体を覆いつくしていた。
谷山浩子が「淡い光が 照らし出すのは 赤い自転車 野菜を積んだ」と歌ったときも、中島みゆきが「逃げ帰る故郷など とうにない」と歌ったときも、Samuel Barber「弦楽のためのアダージョ」を聴いたときも、いつもこの風景が思い浮かぶ。不安に駆られて逃げ惑うときも、難問を解決して安堵するときも、真冬の早朝でも真夏の昼寝でも、何度も繰り返しこの駅のホームに舞い戻る。いつもそれは旅立ちの夢だった。ぼくは選択肢のない分かれ道に立っていて、自分の責任で一歩踏み出そうとしている。他の選択肢は選択できないのに、選択できる選択肢を自分の意志で選ばなければならない。立ち止まるべきだったという後悔なのか、そこに戻ってやり直したいという願望なのか、ぼくの心が固執しているのか、なにかの力に拘束されているのか、分からない。そしてその風景は取り返しがつかず、やり直しもきかない。時をさかのぼってその時の自分に声をかけることもできず、声をかけることができたとしても何も言えることもなく、ただただ寒々とした水銀灯の下に一人立って、心もとない旅立ちのときを待っている。
1989年の大晦日のこの日、繰り返される旅立ちの風景とは、逆方向に進んだ。知らない場所への旅立ちではなく、よく知った場所への帰郷だった。信越本線の始発に乗り換え、生まれ育った町に向かった。普通電車に乗って東三条駅に到着し、弥彦線に乗り換えて、朝8時前に燕市に帰還した。色褪せた看板や剥がれかけたポスターだけが往時の名残を訴えている。舗道には人影がまばらで、赤茶色に錆びたアスファルトに中途半端に雪が残っていた。錆びついた街灯と、空き店舗の曇ったガラス窓、沈黙する商店街を進んでいった。そこは自分の知っている故郷とは少し違って見えた。違って見えたという自分自身も以前とは違っていた。違う人間が違う場所に帰ってきたといった、そんな違和感があった。その違和感は錯覚かに思えたが、連続性の途切れた町に、連続性の途切れた人間がさまよっているようで、お互い知らない者同士のようなよそよそしさがあった。
そのときぼくは20歳で、あと20日くらいで21歳になるところだった。京都に旅立ってから1年10ヵ月が経過していた。1年で帰れるはずの約束は、いとも簡単に10年に延長されたので、京都での生活は「あと8年2ヵ月」という計算になった。この日、何度も残りの月日を数えてみたが、何度確認しても「あと8年2ヵ月」のままで、それより短くなることはなかった。そして同様に、帰省していられる日数を数えてみたが、何度数えてみても「あと4日」でしかなかった。京都では土曜日も日曜日も休みはなく、毎日深夜0時を回ってからやっと仕事を終えることができた。休みの日に休めるのは年末年始しかなかく、とはいえ、1年目の年末年始は帰らせてもらえなかったので、2度目の年末年始は大変貴重な休みとなった。
相変わらず家々の屋根には雪が積もり、道路の消雪パイプから鉄分やマンガンを多く含む散水により、空気に触れて酸化鉄(赤錆状)になったものが道路に沈着する。もしかすると洋食器のプレスや研磨工程により発生する金属粒子が道路を汚すということもあるかも知れない。色あせたボディに黄色く濁ったヘッドランプの軽自動車ばかりが疎らに走る一方通行の商店街では、正月〇日まで休みます、といった張り紙が渦巻き風に揺れていた。駅から自宅まで帰る途中に実家の菩提寺があり、その境内に先祖の墓がある。ぼくは墓参りなどしたこともなく、京都から帰省しても前を通り過ぎていくだけだった。1年10か月の間に、世の中では様々なことがあったらしいが、テレビも見ないしラジオも聴かないので、外部の世界で何が起こっているのか何も知らなかった。深夜まで営業している三条通の大型書店で、村上春樹「ノルウェイの森」とシドニィ・シェルダン「ゲームの達人」が平積みされているのは知っていたが、ぼくが手に取ったのは、いわさきちひろの画集とあまんきみこの絵本だった。
あの日、1988年の京都大学の二次試験当日、ぼくと両親は父の取引先に紹介してもらった会社に行くために電車に乗った。京都駅から東海道本線に乗って滋賀方向に向かった一駅目が山科だった。この先には大津があり、琵琶湖の南端が迫っている。日頃外出しない父は大病してからなおさら足腰が衰え、駅の階段で転んで周囲の人々に助け起こされた。父は何でもないと言い、母は父の不注意を叱った。初乗り運賃470円のタクシーに乗って、車の窓から見慣れない風景を眺めた。当時流行りはじめたレンタルビデオ屋を車窓から見つけ、それだけで「生きていける」と安堵した。
仏壇のような伝統工芸は本来たくさんの職人による分業体制を必要とするもので、木地・彫刻・漆塗り・金箔・金粉・金具・蒔絵・組立・彩色・仏像など、それぞれの専門職人が仕事を分担してやっと一つの製品が完成するものだ。さらに言えば、仕事を取ってくる営業も必要であり、受注した仕事を様々な職人(会社)に依頼してスケジュール管理して、最終的に仕上がった製品を納品する責任を負う問屋(もしくは仏具屋)も必要だ。父は木地と金具と彫刻・蒔絵・彩色・仏像などをアウトソーシングして、一人でやっていたのに対し、京都では完全に工程によって会社が異なる、といった組織的な分業体制が確立していた。
父に仕事を紹介したのは京都の金具屋であり、この金具屋の営業担当が同じ町内で人材を募集していた漆工業の会社を紹介した。そこは町内がすべて各分野の職人の会社が寄せ集まっている団地であり、製造効率が良いようにできていた。
この会社の40代の経営者は、実の父親である70代の会長と大変仲が悪かった。世間を見返してやらなければならないというのが口癖で、中学にもまともに行っていないので読み書きができないと言っていた。この会社を大きくしたのは自分の手柄であるのに、世間は父(会長)のことばかり評価する。父は祇園で女遊びばかりで、自分と母は捨てられ、母は亡くなった。その恨みのある父親を会長として自分が面倒を見てやっている、という訳である。世間からどう思われているかをたいへん気にする人で、立派だと思われたい、尊敬されたい、感謝されたい、羨望されたい、とにかくそういうことを渇望していた。会社の前の道路のガードレールを勝手に撤去し、代わりに自分で山から仕入れた竹を渡して「風情のあるガードレール」を自作して、その横に天皇陛下が乗るような最高級車を横付けすることで、周辺住民から一目置かれると考えていた。
1988年や1989年はバブル景気に沸いていた頃で、仕事は山のようにあり、そこにちょうど入ってきたぼくに、会社のいちばん重要なところを最初から任せてくれた。ただし、この人は給与を支払ってさえいれば何をしても良いという考えの持ち主で、労働基準法やコンプライアンスといった概念は存在しない。選挙のときに自分が応援したい候補者に入れるように社員に強制するとか、二階の窓から投げ捨てた猫を深夜まで探させるとか、毎日のように暴力をふるって傷害を与えるとか、他所の庭の苔を盗ませるとか、社員の積み立てた財形貯蓄を横取りしようとするなど、やりたい放題だった。社長は結婚していたが子供はなく、配偶者ではない別の女性と一緒に暮らしていた。要するに甲斐性があれば何でもOKという訳である。
社長はぼくの帰省に合わせて寿司屋の鯖寿司を大量に作らせ、それをぼくに持たせた。大晦日帰省するとすぐに車に乗って、親戚の家一軒ずつ訪問し、鯖寿司を配って歩いた。親戚はいつ帰ってきたのかと問い、いつ再び京都に戻るのかと聞いた。この先、毎年1年に1回大晦日に帰省することになるが、3年目、4年目、5年目・・・と年を重ねるごとに、この質問にある「帰る」というのが示す場所が、だんだんと新潟から京都に重心を移していくのが感じられた。ぼくの帰る場所は京都であり、新潟は行く場所である、というふうに変わっていったのである。そして年月を経るたびに、10年という長期間で京都に行かせることになった判断に親戚全員で加担したことに、疑問が生じるようになった。1990年代はバブル景気が終焉し、どこもかしこも絶不調となったことで、なおさらその疑問は大きくなった。10年後に京都から帰ったとして地元にどれほどの仕事があるか分からなくなったということと、本人がいまだに考えを変えず「家業は継がない」と言い続けているからだった。京都行を推進したことに疑問が大きくなっても、親戚は誰もそれには言及しない。親戚が言葉にできたことは、「電車は混んでいたか」ということだけである。京都の会社経営者も世間知らず、そこがどういうところかもわからず長期間で息子を預けた両親も世間知らず、とにかくそれがいちばん良いと軽々に賛成した親戚も世間知らず、そして逃げ出さずにそれを遂行しようとするぼく自身も世間知らず、つまり全員が無知で世間知らずのばかだった。
実家には先祖代々を祭る仏壇があり、神棚もあった。大晦日の夜は供え物をして、蠟燭に火をつけ、両親はお参りしたが、ぼくは決してそれをしなかった。仏前にも神前にも手を合わせようとしない息子のことを父も母も不満だった。ぼくは現実主義的で、人生の幸福は神頼みや先祖の供養などによってもたらされるわけではなく、個人の判断と行動によると思っていたからだ。1990年1月4日の朝、祖父と祖母の眠る墓石のある菩提寺の前を素通りして、ぼくは再び京都に向かった。あと8年2ヵ月である。