
ぼくはメモが書けない。というか、ノートも書けない。昔からそうだったが今も変わらない。ノートが書けないから勉強ができなかったのかも知れないし、勉強ができなかったからノートが書けなかったのかも知れない。その因果関係はどちらが正解なのか分からない。中学生の時も高校生のときも、ノートは言わずもがなの必須アイテムで、使うのが当たり前で、そこに疑問の余地はなかった。文房具としてのノートは嫌いではなく、真新しいノートは持っていても気分良かった。ところがそこに1ページでも書くと、いや1文字でも書いた瞬間に、嫌になった。誰にも見せられない恥ずかしいものに変貌するというか、あまり仲の良くないクラスメイトに「ちょっとノート貸して」とかもってのほかだった。教科書のテキスト文字とかけ離れた自分の手書き文字を書き込むと、途端にノートは禍々しいものに変わった。自分の書いた文字を見ることは、自分の姿を鏡で見るようなもので、とても見てはいられない。よほど文字の美しさに自信があるか、ナルシスティックな性質の場合は違うのかも知れないが、とにかくぼくの場合はちょっと書いては捨て、またちょっと書いては捨て、を繰り返して「テスト前にノートを読む」などという芸当はできるわけがなかった。
1970年代の地方における教育の現場では、教科書とノートと筆記用具をランドセルに詰めてくることが当たり前だったし必須だった。教師もノートを取らせることを子供に習慣づけさせようとしていた。子供は何の疑いもなく、黒板に書かれたものをノートに書き写していたし、教師も全員がノートに取り終わったことを確認してから黒板を消していた。ノートを使わせるというのは、文部省(現在の文部科学省)的な教育方針があったのかも知れない。2020年代の東京においても、電車に乗っていると、大きな帽子をかぶった私立小学校の生徒が、たった一駅か二駅かの短い区間でも鞄からノートを取り出して、ちまちました勉強を丁寧にしているのを見かける。ノートを使うことは今も昔も変わらないのだろう。
しかし、ノートを書いて勉強が出来るようになったという経験が何ひとつ見当たらない。ぼくだけだろうか。ノートを書くことによって問題が解けるようになったとか、理解ができるようになったとか、暗記ができるようになったといった経験が皆無だ。それはぼくがノートをまともに取っていなかったからなのかも知れないが、そうはいってもかなりの分量のノートを書いてきたことも事実だ。強いて云えば、数学の演習にはノートが必要だと思うし、リマインドの機能としても役に立つ。これはメモも同じことで、「思い出させる」という機能だけは間違いなくある。でもリマインドの機能は、ノートのみにあるものではなく、教科書を読んだって思い出すことはできる。板書を書き写すことの意味とか、教師の話を書き写すことの有効性について、今更ながら疑問に感じる。
黒板に書かれたことを書き写しているときに成績が上がっているという実感がない。もっと云えば、授業に出席しているときに成績が上がる、という実感もない。たとえば予備校は授業の出席が重視されるし、夏期講習の口座をたくさん受講して欲しいのだろうが、コマ数を増やして偏差値が上がる感じがしない。発信された情報を記録するという作業を通して、なんの成果もあげられない。板書をノートに取るのは視覚-視覚変換であり、教師の言葉をノートに取るのは聴覚-視覚変換である。見たものを書くか、聴いたものを書くかの違いだが、いずれにしても情報の移動以外の何物でもない。何も頭を使わないし、理解の必要もない。意味のある使い方があるとすれば、いったん自分で理解したことを自分の言葉で再構築してノートにアウトプットするということだが、そういうクリエイティブなノートの作成はほとんどやっていなかった。
そもそも読みやすい印字で体系的で網羅的、なおかつ重要なことが最初から分かる工夫が施された教科書や参考書があるのに、わざわざ恣意的で断片的、下手な手書きのノートを無理に作ることの意味は、「まじめな生徒」であるという表示にしかならない。ほかの人はどうだかわからないけれど、個人的には、ノートを見返しても何の勉強にもならなかったし、テスト前に役に立ってくれた記憶もない。なぜ周囲の人々は、なんなら社会全体は、ノートをありがたがっているのかさっぱり分からない。
それから時代が進んで、現代のビジネスの世界に身を置くようになって、学生の頃のように大学ノートを持つことはなくなった。リマインドのための小型のノートを常用し、あとでエクセルのTO DO LISTに記載するための用途のみに使う。ほぼほぼメモ代わりである。
メモを取ることとノートを取ることは同じことのように思えるが、メモは他者と共有することを前提としており、ノートは他人に見せない、自分だけが読んで自分だけが分かればよい、といった前提のものである。というと違和感がなくもないが、「〇時〇分 〇〇会社の〇〇さんから電話があった」のようなメモは、それを伝える相手に見せることを前提としている。こういうときにノートとは言わない。そうするとメモは誰かに発表する前提のわりとオフィシャルなもので、ノートは誰にも見せないプライベートな覚書ということになる。日本では、「ノート貸して」は日常的だが、誰にも見せない前提の個人的な覚書を他人に見せるなんて、もっと躊躇われる云い方であるべきだ。
大学を卒業して会社勤めになった当初は、顧客との打合せなどでメモを取るようにと先輩に教わった。ノートを持ったまま書いてはならない、相手から見えるようにテーブルの上に開いておいて、そこに書けと注意された。でも相変わらず、たいしたことは書けなかった。たいしたことというのは、重要なことが書けないという意味ではなく、それを書くコストに見合う効果が感じられないという意味だ。
メモを書くことによって、相手の話を分かろうとする理解力がはっきり落ちる。コミュニケーションの質が落ちるとも云える。情報を移動させることに知的ソースが割かれて、理解することにリソースが回せない。相手が何を言っているのか、理解はできないけれどメモに取れることを優先するべきか、メモは取れないけれど相手の話を理解することを優先するべきか。考えるまでもなく、当然後者だ。理解と記憶は関連し、相互依存関係があるので、理解していないことは忘れやすく、理解したことは忘れにくい。つまりメモを取ることなど放棄して、相手の話を聞くことに集中し、理解することに全リソースを費やせば、一定の理解が得られるわけで、後になってメモがなくても、何が話し合われたのか記憶することもできる。記憶が曖昧なのは理解が曖昧であるからに他ならない。
知的リソースが膨大にある人の場合は関係ないのだろうが、ぼくのように地頭が良くなく、知的リソースの乏しい人間の場合は、ノートを取ることにリソースを使いながら、同時に理解もできる、という芸当ができない。したがってメモを放棄して相手の話を聴くことに集中する必要がある。でも世の中には、もっと知的リソースが少ない人もいるかもしれない。メモを取らずに相手の話を聴くこと集中して知的リソースを理解に全振りしても、それでも理解ができないかも知れないという懸念がある場合、最初から理解することを諦め、どうせ相手の話に集中しても理解はできないのだからせめてメモは残した方が良い、という判断になっているように見受けられる。
実際は、知的リソースが本当に少ないという人はむしろ稀で、知的リソースが少ないような気がして、自分の理解力や判断力に自信が持てないだけのように思える。自分の考える力に自信がないと、理解や判断を他人に委ね、理解を放棄する代償としてメモで記録を残すこと、指示されたことを実行することに特化するようになる。その習慣の固定化が、人間の頭を本当の意味で悪くする。カーナビを使うときは北が上ではなく、進行方向がいつも上側になり、目的地の方向性や距離感を把握・理解することよりも、目の前の交差点を右に曲がるのか左に曲がるのか、その情報だけもらえれば満足で、指示を忠実に実行するだけの作業者になる。
学校ではとにかくノートを取るのだ、会社に入った新人はとにかくメモを取るのだ、という教育と仕事のイニシャルフォーマットは、自分なりの理解や自分なりの判断、自分なりの考えのない、指示されたことだけを実施する作業者を、右から来たバケツを左に渡すだけのような情報伝達者を、カーナビで進行方向を上に設定して目先の指示だけ欲しがるドライバーを大量創出することに役立ったのだろうか。