ものごとを理解するには、情報の仕入れと検収(理解)が必要だ。
検収とは納品されたものが発注内容と違わないかを確認するという意味だが、これには労力を要する。情報を仕入れるのも面倒だし、検収するのも面倒だ。
身の回りにある様々な事柄について、改めてそれらと向き合い、自分の中に取り込んで理解するという作業は、年を取ると億劫になる。
いまさらスマートフォンの使い方を学びたくないし、自動調理なべを使いたいとも思わない、最近流行りの音楽は聴きたくもない、とにかく新しいものはすべて「分からない」し、「受け入れたくない」のだ。
自分の中に新しい情報が流入してくることは許されない。それによって自分の考えや価値観が変質してしまうことはもっと許せない。一定の年齢を超えた人はその傾向が強くなり、保守化し、新情報の拒否によって柔軟性が失われていく。
すでに彼らはその人生において、「次の文章」を各々が理解して、「後の問い」に回答してきたのであり、いまさら過去に出した回答が変更になるようなことは受け入れられないのだ。新しい情報のインプットは、自分の解釈や思想、価値観を揺るがしかねない。自分が変質してしまうことは許されない。
人生は短く、試験時間もあとわずか。
年をとっても新しいことを受け入れ続け、それによって自分の考え方に変更が生じ、過去に作成してきた回答を消しゴムで消して、最後の瞬間まで書き直し続ける。
はたして、そんなことができるだろうか。