「好み」の問題


1998年だったか1999年だったか。

受験勉強をしていた時期、予備校には行かないくせになぜか英会話教室には通っていた。

大学受験の役に立たないことは承知の上だったので、気分転換的な目的だった。

英会話教室というのは、日本語禁止なので英語で話さなければならないのだが(当たり前)、やたらに自己紹介を求めるし、やたらとWhat’s new?を訊いてくる。

週に2回も通う英会話教室で、そんなに新しい出来事が起こるはずもない。

ニューヨークのメトロポリタンミュージアムそばに実家があるという講師に、来る途中で車に轢かれた猫をカラスが食べていた、と言ってどん引きされたことがある。

その頃に、なんとなく問題意識を持つようになったのが、「好み」の問題である。


英語で自己紹介しようとすると、みなさんやたらと「好み」を語る。どんな食べ物が好きか、どんな音楽を聴くか、どんな映画を観るか、休みの日は何をしているか、趣味は何か。

「好み」を発表しあうというのは、英会話教室の中に限った話でもないだろう。

初対面の人と話をするときや、自分が何者なのか説明するとき、当たり障りのない話をするとき、「好み」の話は重宝される。SNSでは、誰も聞いていないのに、好きなものは何か、趣味は何か、を発信する。便利で使い勝手が良く、PopでCasualな話題なのだろう。

英会話教室なので、なのでというか、どこのシチュエーションであったとしても、一定の政治力が働くだろうから、発表している内容が本当の好みかどうかは怪しい。ファッションとしての好みも語られているに違いない。いずれにしても「好み」の話が多用されるのは、自己PRというかセルフプロモーションになると考えられているからであり、自分にとってマイナスになるなら「好み」の話はもっと回避されるはずである。

ここに二つの仮説を用意してみる。

  • 人間は好きなことにお金と時間を費やす
  • 馬鹿はつまらないものを好む

この二つの仮説が組み合わされると、

  • 馬鹿はつまらないことにリソースを費やし、一度しかない貴重な人生を終えてしまう。

ということになる。

そう考えると、何を好むかという問題は、人生の行方を左右するということになり、いうほどPopでもなくCasualでもなく、案外シリアスで深刻な問題のように見えてくる。

しかも、英会話教室の中で行われる自己紹介のような、休みの日に何をするか、といった余暇時間の使い方だけで話が済むわけでもない。

生活習慣の中にも、食事の中にも、勉強の中にも、仕事の中にも、「好み」の問題が入り込んでおり、それらが我々の貴重なリソースを消費しているのではないか。

好きな生活習慣を行い、好きなものを食べ続け、好きな勉強だけをし、好きな仕事(っぽいこと)だけを積極的、持続的に行うことの弊害は何なのか。勉強の結果や仕事の成果に大きな影響があるとすると、いよいよ「好み」の問題は軽視できない。

かりに趣味は旅行ですと言っている人がいたとしても、実際にいちばん時間を費やしているのが、なんとなく家でだらだら過ごすことであるとすれば、その人の「好み」は「家でだらだら過ごす」ことであり、それによって人生のかなりの部分は家でだらだら費やされる。少なくとも、この人は旅行が好きな自分になりたかったのかも知れないが、いちばん好きなことにいちばん時間をかけるものである。


何かを好きになろうと試みることは誰しもあることだ。〇〇を好きな自分になりたい、というような気持ちは分からなくない。ワインが好きな自分になるべきか、趣味は歌舞伎といえる自分になるべきか。趣味を訊かれてアウトドアと答えたくて、キャンプセットを購入したが実際には一度も行っていない、というようなことはよくある話だろう。

意図的に何かを好む、というのは思ったより難しい。「好み」のコントロールは簡単ではない。

たとえて云うなら、我々は広々とした海岸に立ち、水平線を見渡している。

眼前に広がる海にいくつもの島が浮かんでおり、そのひとつひとつが好みの対象だ。

このHorizontalな世界の中で、その気になれば、どの島にだって行けるし、どの島にも手が届く。何を自分の「好み」に設定するかは自由だから、どうにでもできる、そんな気がしている。

大きな書店の中を歩き回り、たくさんの本があるのがわかる。

ここはHorizontalな世界だ。

その気になればどの本だって手に取ることができる。科学でも宗教でも哲学でも思想でも、どういう種類の本だってレジで会計して、家に持ち帰り、読むことができる。やがてこの本を好んで読むことができるようにもなるのだ、と考える。

本屋の帰りにスーパーに寄れば、そこにもたくさんの食材が売っている。

ここはHorizontalな世界だ。

一度も買ったことのない野菜や、一度も使ったことのない調味料が山のようにあるが、それはたまたまであり、その気になれば、どの商品だって手に取ることができる。一度も作ったことのない料理を作って、それを趣味にすることもできるのだ、と。


しかし、果たしてそうなのか。

広々と水平方向に広がるこのHorizontalな世界の中で、ぼくはどこにでもアクセスできる気分でいたが、もしかするときわめて限定されたものにしか手が届かないのではないか。

哲学や宗教や思想の本はまた今度にして、今日は「週刊少年ジャンプ」か「週刊SPA!」あるいは「週刊プレイボーイ」の中から選んで帰ろうか。あるいは、一度も買ったことのない調味料や食材にチャレンジするのはまた今度にして、今日は食べなれたいつもの食材と調味料を買って帰り、いつものご飯を食べようか。

水平方向に広がった世界には、様々なモノが視界に入るけれど、どこにでも行けるわけではない。案外どれにもアクセスできない、手も届かない。

そこは、むしろ縦方向に延びるVerticalな世界だ。

かりに1万種類の選択肢があったとしても、実際にリーチできるのは数種類だけ。1万種類から好きなものを自由に選べるのではなくて、数種類の中から決まりきったものを選ぶより他にない。

その数種類の選択肢は、ぼくの所属する階層にあるものであり、別の選択肢を好むためには別の階層へ行くしかない。別の階層に行くということは垂直方向の移動が必要であり、そのためには相応の努力が要る。

将棋の面白さを理解するためには、ある程度以上に将棋が強くなければならない。そのためにかかる時間や労力を費やし、努力した先にやっと将棋の面白さがわかる領域があり、そうなってはじめて、将棋が好き、と言えるようになる。将棋のルールも知らない段階では、自分の階層には将棋という選択肢は存在しない。努力によって将棋という選択肢を選べる階層に上がってはじめて、それにアクセスできる。

そう考えると、何かを好むためには、相応な勉強が必要であり、知識や経験、教養などによって所属する階層が拘束される。もっと別な好みを身に着けたければ、精進するしかない。

結果的に、「家でだらだら過ごす」ことが、何の努力も必要なく、階層を上げる苦労もなく、最も手の届きやすいところにあるから、支配的となり、人生の行方を拘束するのだ。

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