1988年、新京極のピカデリーだったような気もするし、そうじゃなかったような気もする。
山田洋二監督の映画『ダウンタウン・ヒーローズ』で、主演の薬師丸ひろ子が大阪厚生年金会館で行うコンサート”SENTENCE”の告知を兼ねて舞台挨拶に登壇していた。
薬師丸は、自分のMCは下手くそだから歌だけ歌うのだ、と言い切り、いや歌が上手だとは言っていない、と恥ずかしがった。
薬師丸ひろ子の声は天上から舞い降りる羽毛のように柔らかで、山の地層にろ過された湧水の澄んだ流れのように透明だった。
その映画のシンボルテーマソングが『時代』であり、それをラジオで聞いておやと思ったのがきっかけだった。その時に違和感というか、不自然さというか、何か引っかかるものをふいに感じた。この歌を書いた人は誰だろう、と思った。
その歌詞について、その後30年以上にもわたっていろいろな人に尋ねて回ったが、誰も不自然さは感じなかった。どんなに注意深く歌詞を聞かせても、どこにもおかしなところはないという。
話のできる人はいないのだ、と思うよりほかになかった。
新潟県で2月下旬の早朝といえば相当寒い。もはや選択の余地もなく、親に連れられて東三条駅の待合室にいた。この判断が正しいのかどうか自信が持てない、でもこうするよりほかにない、とでもいうような決意の両親と、石川・福井を回って京都に至る特急電車に飛び乗った。3人とも無口で、とってつけたようなたどたどしい話を父は不必要にした。
父は伝統工芸士で、一人息子に後を継いでもらいたいため、遠いところに旅に出すことにした。父のあとは継ぐ気がなかったので、京都から帰ってきたら別のことをするつもりだったが、京都に行かせてさえしまえば息子の考えも変わるだろうくらいに父は思っていた。
親とは1年の約束で、それが終われば好きにして良いということだったので、まずは大学に行こうと決めていた。
長旅を経て特急電車(とき?はくたか?)は京都に到着した。ローソクの形をしたタワーが立っており、すぐ近くのビジネスホテルに家族3人で宿泊した。
ロビーの電話には、あしたは全員かぼちゃだと思うようにすると決意を述べる女子高生がいた。京都大学の二次試験の前日だった。
ぼくは雪国で生まれたし、雪国で育った。あまり空が晴れることもない新潟県は、積もった雪を解かすために埋め込まれた消雪パイプから出る水の鉄分のせいで、道路は錆びて赤茶けている。
京都は四方を山に囲まれ、窒息しそうな魚が水面を目指すように、どの家の屋根にも背の高いテレビアンテナが電波を求めて空へ伸びていた。
庭の植物をいじる老人も、けたたましく通り過ぎる子供たちも、まるで全く別の原理で動く異世界の住人のように見えた。
毎日日付が変わるまで働き、土曜日も日曜日も休みはなく、毎日怒鳴られ、殴られ蹴られ、そんな目で俺を見たといっては殴られ、鼻血が一滴床に落ちて床を汚したといっては殴られ、痛そうな顔をしたといってはまた殴られた。表情の変化にも、視線の方向にも、鼻血の行方にも気を配る必要があった。帰省するなどということは不可能だった。
ぼくを雇ったその会社の社長は、入れ墨もあったし服役もしていたが、当時はカタギで、社会を見返してやるのに懸命だった。周辺には誰々の指はワシが詰めたったと自慢げに言うような声が聞こえる、そんな界隈だった。
愚かな両親は世間知らずで、そんなことも知らずに、か細い仕事関係の伝手をたどって息子を預けた。両親はその会社の社長と「息子を10年間お願いします」という約束をしていた。
京都から戻ったころには息子の考えも変わっているだろうという父の見立ては、ある意味妥当だったといえる。
こうして1年の約束は、10年の約束に変わった。
そんな時にラジオから聞こえてきたのが、薬師丸ひろ子が歌った中島みゆきの『時代』だった。
故郷に「帰る」のではなく、故郷に「出会う」ため、と歌っていた。
中島みゆきは、なぜ故郷に“出会う”と書いたのだろう。
職人の仕事はサラリーマンではない。週休2日などあるわけがないし、定時などという概念もない。四六時中仕事のことを考え、四六時中仕事に没頭する、土日もないしゴールデンウィークも夏休みもない。
深夜0時過ぎに仕事を終え、1日16時間程度働くのが常識だった。風邪をひいても休まない。社長はそういう人間にぼくを育てたかった。
暴力をふるうのは、仕事がうまくいかないからというよりも、自分がうまくいかなかったり、ストレスがたまったり、後ろめたいことがあったりするからだった。
日曜日に日産のプレジデントで祇園の女遊びから帰ったところで、仕事をしているぼくと目が合えば、咎められているような気分がして殴りかかってきた。
社長はよっぽど不幸で貧しく、惨めで悔しい思いをする人生を送ってきたようで、他人から「尊敬される」「羨ましがられる」「感謝される」ことを死ぬほど希求した。
最も嫌うことは、「馬鹿にされる」「軽蔑される」「見下される」ことで、散々ぼくを殴り続けているにもかかわらず、ぼくから尊敬されたがったし、感謝されたがった。
周囲から一目置かれ、尊敬され、感謝される「自分」が大好きなのである。
ためしに「社長はやっぱり他とは違いますねえ」などと言おうものなら、満面の笑みで喜んだ。びっくりするくらい馬鹿だと思った。
2年、3年と年齢を重ねていくと、社長はぼくへの依存が高くなった。社長は1年目からぼくを塗り場に入れたのだが、この世界では、塗り場は最終工程で、最も難易度が高く、会社の売上を左右するから、新人に任せることは普通ない。
製品のもとになる木工製品は別の会社が製造し、それを仕入れて漆を塗る。ただし加工された木地に直接漆を塗るのではなく、何層にもその準備が行われる。それが下地の仕事で、この部分は最終的に見えなくなるので、そこまでの神経を使う必要がない。新人はこの下地の仕事を何年もやって、下積みをするものだ。
一方、ぼくはほぼ最初から塗り場に入り、上塗りまでを任された。下地の工程が終わっても、漆塗り自体も複数回の工程があり、塗っては研ぎ塗っては研ぎを繰り返し、最終的には上塗りを行う。この上塗りはそのまま製品となるので、人目に晒される。美しければその会社には注文が殺到するし、駄目なら仕事は減っていく。
とりわけ上塗りの後、別の会社でそれを磨いて美しい色を出すことを蝋色というが、磨かずに塗りっぱなしのものは「立(たて)」という。
この「立」は、立役者と同じ意味の「立」で、第一の、という意味がある。
今や、輪島塗のように茶碗や箸など小さなものではなく、寺院の祭壇など数メートルもある大きな製品を上塗り、しかも立で塗れる人間は極めて稀だろう。
社長は競馬放送を聞いてタバコを吸いながら漆を塗るので、上手くいく訳がなかった。大きな製品も難易度の高い製品もすべてぼくに任せるようになった。
上手くいかないことも多く、その失敗を取り返すために、深夜も休みの日も働いて、結果的に超長時間勤務になったが、仕事は殺到し、経験値は上昇し、技術は他の追随するところではなかったろう。
数年後には会社は立派な新社屋に変わり、社長は天下を取ったと喜んだ。
ぼくの立塗りの技術力はバブル崩壊後の不景気の中にあっても、一定の仕事を集め、会社に富を与えたのは間違いない。
しかしあまりにもぼくへの依存度が高くなり、社長は、ぼくがいなくなったらこの会社が維持できなくなる、ということを何とかぼくに悟らせないように苦労していた。ぼくが天狗にならないように注意し、どこまでも謙虚であることを求めた。
ぼくも気を使い、もっとも価値があるのは社長ではなくぼくである、という事実に気が付かないように振舞わなければならなかった。
しかし、年月が経てば経つほど、社長は不安と苦悩を増していった。
10年の約束は永遠にも思えたが、残り少なくなっていく中で、ぼくがいなくなったら会社をどうすればいいのか。
何十人も人を雇って、新社屋の最上階の寮に住まわせたが、この環境の厳しさに耐えられる人間は一人もおらず、全員真夜中に逃げ出して、戻ってこない。当然人も育たない。
難易度の低い下地の仕事であれば、他に行き場のない人間が、この仕事が好きだと自分に言い聞かせてかろうじて続いているという程度で、上塗りができる人間は育たなかった。
あと数年で新潟に帰ると会社はどうなるのか、不安と心配でまたぼくを殴り、敷板を振り回した。キリで刺そうとしたこともある。それでも社長はぼくに好かれたかったし、感謝されたかった。
春になるたびに、ラジオから中島みゆきの『時代』が流れた。
この曲を名曲だと紹介する人は多かったけれど、なぜ「故郷に出会う」なのかについて言及する人はひとりもいなかった。
1997年の冬、ちょうど10年間が終わろうとしていた。
社長は衰え、将来の不安が差し迫り、頼りたい人間が離れていく。上手くいかないのはお前らのせいだと言って、些細なことで言いがかりをつけ、謝罪と従属を要求したが、もはやぼくはこの哀れな人間を蔑んだ目で見つめるよりほかに仕方がなかった。
そんな目で見やがってと激怒したが、怒鳴っても殴っても怯まないぼくの頭上に、傍にあったアルミの脚立を振り上げた。
みっともないものを見ているといったぼくの表情から、やれよ、という意思が伝わって、社長は叫びながら、でも脚立を振り下ろすことはできなかった。もはや力関係が逆転していた。
ぼくは逃げ帰るのではないから、あわてて帰ることはなかった。その日もいつものように会社の寮に帰って休み、次の日の朝、出ていくと宣言した。社長はぼくの親に電話をかけて外まで響く声で怒鳴っていたが、どうすることもできなかった。
もちろん、その10年の間に、そこから逃げてクズと呼ばれる選択肢もあった。でもそうしなかった。
帰りの車の中で、中島みゆきの『時代』を聴いた。
「今夜は倒れても、果てしもなく冷たい雨が降っていても」旅を続けるのは、故郷に帰るためではないことは、今や明らかだった。その10年は新潟に帰るための旅路ではなかった。
「故郷」とは、生まれ育った場所ではない。
むしろそれは、旅人が未来に建設すべき、次の世代(子供たち)にとって故郷と呼びうる場所、である。
自分自身が生まれ育った場所ではなく、次の世代に生きる人達にとって故郷と呼びうる場所を、旅人は苦労して追い求め、死に物狂いで建設しなければならないのである。
「今夜は倒れても、果てしもなく冷たい雨が降っていても」我々は困難を乗り越え、新しい家族を形成し、子供たちが誕生し、彼らにとっての“帰る場所”を建設しなければならない。
我々自身の帰る場所ではない。
中島はそれを云いたかった。
だから、『時代』は、「故郷に帰る」ではなく、「故郷に出会う」でなければならなかったのだ。
そして現在、苦労と困難と悪戦苦闘のさなかにいる若い人を見て想う。
まだ見ぬ子どもたちの帰る場所を作るために、頑張っているのだなと。