デジタル・コミュニケーション問題


ぼくはビジネス系の本を全く読まない。自己啓発系の本も全く読まない。本屋で平積みされているような、いわゆる「よく売れている本」を全く読まない。日本の文学も読まない。海外の古い文学作品ばかりを読む。日本の文学は50歳を超えて、一通り海外文学を俯瞰した後で手を出そうと考えていたのだが、海外文学がいつまでたっても終わらないので、いまだに日本に戻って来ることができない。

などと云いながら、読んだ本を記録しておくエクセルを調べると、赤川次郎『いもうと』などにうっかり手を出しているので、絶対に読まないわけでもない。ちなみに『いもうと』は、『ふたり』の続編であり、『ふたり』は立ち読みで読了してしまった唯一の小説である。

まあとにかく、ジェームズ・クリアーとかダレン・ハーディ、ロバート・キヨサキ、ミアン・サミ…などをつまみ食い式に手を出したことはあるので、「習慣」と「複利」の重要性がうすぼんやり分かったことと、「女性が負債に見えるようになった」というだけで、収入を増やす方法的なことには疎くて、まったく知らないし、何も知らない。


前回「お金の話」で指摘したように、我々はお金の使い道について熱心に考えるが、「入ってくるお金」を増やす方法には無頓着だ。多くの人(70~80%)は給与所得者なので、どうやると給与所得を最大化できるか、という問題である。

副業とか投資とかそういう話ではなく、特殊な業界で特殊なスキルや資格を身に着けて云々…という話でもない。

収入を増やす、給与を増やす、というのはたいていの人にとって超重要な問題のはずだが、いわゆる「お金を稼ぐ」的な話はよろしくないという、極めて日本的な、目に見えないイデオロギーによって遮られてしまう。

営業職であれば、「給与を増やす」=「仕事ができる」=「成果を出す(受注や売上などの目に見える数字をあげる)」ということになるが、この「成果を出す」は、何によってもたらされるのだろう。また、バックオフィスやミドルオフィスであっても、「仕事ができる」とはどういうことなのか。いくら年功序列的な制度が残るとはいえ、やはり「仕事ができる」ことは収入の多寡と相関関係があるのは間違いない。誰でもできる仕事しかできない人と、その人しかできない仕事をする人であれば、大きな給与差が発生するのは自然だ。

問題は、この「仕事ができる」とはいったい何なのか。

「仕事ができる」の正体は何か。


この問題の回答をあっさり、そして大胆に断じてしまえば、「仕事ができる」=「他者から歓迎される」ということに他ならない。

他者から歓迎されないのであれば、「仕事ができる」とはいえない。

他者から歓迎されるのであれば「いてほしい人材」であり、歓迎されないのであれば「居てもいなくてもどちらでもいい人材」である。一定以上度が過ぎると「いない方が良い人材」「いると迷惑な人間」になる。

一般的に、他者から歓迎されない人材に、ふつうの会社は高給を払わない。「迷惑」が勝れば「退職してほしい」とさえ思われる。

高校や大学でもたくさんの人に取り囲まれていたのだけれど、社会に出てから出会う人々は利害関係があるという意味で、かつての友達とは異なる。

仰々しくいえば、「他者の登場」であり、上司も同僚も部下も顧客も、ビジネスにかかわる全員が「他者」であり、これらすべての他者に「歓迎」される必要がある。

顧客から「この人にずっと担当としてやって欲しい」と思われるか、「できれば他の人に変わってほしい」と思われるかは、かなりクリティカルな問題であるが、上司や部下や同僚にどう思われるかも重要な問題だ。

歓迎されるというのは、「ばか丁寧に話す」「愛敬を振りまく」「親切にする」「丁寧に教える」…とかそういうことではなく、「怒らない」「怒鳴らない」とかいうことでもなく、「お菓子をくばる」ことでもない。

どうすれば歓迎されるのか、を端的に云えば、「デジタル情報を出力する」、これに尽きる。


デジタル情報とは、具体的で、はっきりしていて、端的なこと。YesかNoか、可能性があるのかないのか、やったかやってないか、知っているか知らないか、製品、日時、金額、場所、方法、目的、理由、評価、回答期限、ファイル名、スペック、在庫数、部品点数、サイズ、形式、ヴァージョン、契約期間、支払条件、支払回数、担当者名…など、とにかく限定できる情報のことをデジタル情報と呼ぶ。

一方で、ふわっとして、あいまいで、抽象的な話は、なにも限定できない情報という意味で、アナログ情報と呼ぶ。いろいろな事柄について共通する普遍的な真理みたいなことを言うとか、なんとなく意気込みを語るとか、前向きな決意表明を行うとか、そういうのは何も言っていないのと変わらない。「きっちりやります」とか「自分自身を反省し、初心に帰って」とか「もっとテレアポできる時間を何とか確保して」とか、「全力をあげてサポートさせていただきます」とか、そういうのは何も約束していないし、何も言っていないのと同じ。

会社経営者が求めているのはデジタル情報であり、上司が求めているのもデジタル情報、部下が欲しがっているものもデジタル情報、顧客が欲しがっているものもデジタル情報、求職者が求めているものもデジタル情報、とにかくすべての他者はデジタル情報を求めている。


組み込み系ソフトウエアをC言語(高水準言語)でプログラミングしたとして、これをアセンブリ言語に変換し、さらに機械語バイナリーコード(低水準言語)に変換することによって、コンピュータにとって分かりやすい言葉(0と1から構成されている)になって、マイクロコントローラに組み込まれたファームウエアは、実行可能となる。

もし、コンピュータにとって分かり難い言葉なら、なにも理解できず、なにも実行できない。

実社会では、実はこれと同様のことが起こっている。

他者に対して「分かりやすく、実行可能なこと」を云う人間は歓迎されるのであり、「分かり難く、実行できないこと」を話す人間は歓迎されない。

この「歓迎されているか、歓迎されていないか」は、一定の洞察力が必要で、分かる人にはわかるし、分からない人には分からない。

たとえば犬を飼っている人からすると、その犬が嫌がっている、怯えている、喜んでいる、笑っている…というのがはっきり分かるけれど、犬を飼ったことのない人からしたら、どれも同じ顔にしか見えないのと同じ。

そしてこの機械語のように「0」と「1」から構成される言語は、きわめてはっきりしたデジタル情報であり、あいまいなところがない。他者が求めているものは、分かりやすくて実行可能なデジタル情報、つまり、「はっきりしたこと」「具体的なこと」「カチッとしたこと」であり、もの凄く強力な需要がある。


会社経営者なら「売上」「受注」「費用」などの数字を求めるし、求職者なら「条件」「待遇」「仕事内容」「職場状況」「製品」などを知りたがる、顧客なら「サービス詳細」「費用」「期限」「契約内容」から「署名者」に至るまで知りたい、できれば口頭だけではなくて、メールなど後に残る形式で「確定情報」を欲しがる。設計・開発部門の部長が技術者を面接する際に知りたいのは、たとえば「トランジスタ・ダイオード・マイクロコントローラなどの選定を自分でしたかどうか」であり、「やった」か「やってない」かの明確なデジタル情報を求めている。

逆に面接される側の海外の技術者は、製品や仕事内容はもちろん、残業時間や有給休暇、給与総額500,000円/月のときの手取り給与、ロケーション、住居の間取り、社会保険の金額、インターネットやスマホの費用…など具体的なデジタル情報を求めている。

会社内の他者(上司も部下も同僚も)に対しても同じことが云える。「稟議は通過したのかしないのか」「その売上は何月で計上するのか」「先行発注するのかしないのか」「問合せに対してできると回答するのかできないと回答するのか」「GPUはT1000にするのかRTX A2000にするのか」「この件で費用負担をするのかしないのか」…こちらもデジタル情報がないとそもそも仕事にならない。

学生の頃にはあいまいで抽象的なアナログ情報だけで会話が成立していたかも知れないが、社会に出て登場する他者は、誰であっても、明確で具体的なデジタル情報を欲しており、超強力なニーズがある。デジタル情報を出力する(言う、書く)人間は、このニーズを満たすため他者に歓迎され、直接的か間接的かはともかく、「ぜひ居続けてほしい人材」となるし、結果として厚遇される傾向にある。

誰からも求められるデジタル情報をアウトプットしているかというと、大多数はそれができず、アナログ情報を出力している。結果として、他者は困惑し、拒絶し、いらつき、不愉快で、拒否感がにじみ出る。本人が鈍感な場合は、この拒絶や冷遇に気が付かないのだが。

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