一般的にいえば、問題を解決することは喜ばれる。
日々様々な問題が次々に出現し、もぐらたたきのようにハンマー振り回して一日が終わる。
単発的な問題から、もっと構造的、慢性的・長期的な問題まで、その深刻さの程度も含めてバラエティに富んでいる。新しいビジネスの企画書を書いたり契約書を作成したりもするし、顧客からのクレーム対応もする。ある担当者が顧客からこんな問い合わせがあったがどう回答するべきか、と相談が持ち込まれれば、その回答を代わりに作成して、担当者の名前で返信する。顧客がそのメールの一往復で納得しない場合は、何度も回答を作成して担当者に渡す。
ビジネスには新設も必要だが、既存ビジネスの改善も必要だし、メンテナンスも必要だし、補強工事も必要だ。要するにすべきこと、解決が必要な問題は無限に発生し続け、大きな穴が開いて浸水した船底から柄杓で水を捨てるような無力な努力を続けるしかない。
そういう日常では、「共感の余地はない」ことをあらかじめ表明しておいた方が良いかもしれない。人が集まれば争いがおこるものだが、共感を求める人間と解決を求める人間はそもそもそりが合わないのだ。
共感を求める人間は多数派で、話をしたがる。とくに最大派閥は「共感したい」派ではなく、「共感してもらいたい」派の人々である。自分の立場を分かってほしい。自分の気持ちを察してほしい。そのためには、どうしてそうなったのかという経緯とか理由を語らなければならないため、自然と話が長くなる。
少女マンガの「前回までのあらすじ」のように、〇〇くんは××さんのことが好きで、でも××さんは△△くんのことが気になって、みたいな調子で、ああなってこうなって、いや違うんですよ、そうなったのは誰がどうなったからで、でも本当は…的な話が延々と続くので、両手で口を塞がなければならない。
解決を求める人間は少数派で、話を聞きたがらない。というか、聞いている暇がない。あらゆる前置きは要らないし、「お疲れ様です」を言い合う時間さえ節約したい。
「〇〇さん、□□やった?」に対して、「やっていません」とだけ答えればいいのに、多くの人はなぜやっていないのか、実は昨日やろうとしたのだが、それをしようとしたらちょうど何々が突然入って、ああなってこうなって、そしたらなんとかがどうとかなって、という説明から入るので、その話が終わるまで辛抱強く待たなければならない。
この待機時間が1分だったとして、そのあと質問の回答が得られればまだ良いのだが、結局待ちくたびれた挙句、質問の回答はでない。
「で、ぼくの質問に答えると?」
と嫌な感じで追撃して、やっと回答を引き出す。
その問題を早く解決して、次の問題にいかなければならないし、一人立ち去ったかと思うと、順番待ちをしていた次の人がまたくる…というふうで、問題の処理が間に合わず、すべきことをエクセルでメモするだけで手いっぱいになる。
それぞれの担当者が直面する問題について解決案を作成すれば、一般的には喜んでもらえる。が、いつもそうとも限らない。ぼくの示した解決案が、相手にとって「好きじゃない領域(好まないが必要な領域)」に属していた場合は、実行をためらう。ためらって結局実行しない。実行しないなら最初からぼくに相談しなければいいのにと思うが、人間ってそんなもんだから仕方がない。「好み」の問題における第2象限(好みはマイナス、必要はプラス)の実行が簡単でないことは理解している。
また、解決されると困るという種類の問題も存在する。この問題は、政治的には「解決しなければならない」と立場表明を行いながらも、でも本当は解決されると困る、できれば今のままが良い、という問題である。
この解決されると困る問題をXとすれば、「Xを放置しよう」とは誰も云えないから、その代わりにYという代理問題を立てる。Yは所詮代理なので根本的な解決には役立たない。Yの解決でやってます感を演出するだけであり、そこに相当なコストが支払われる。
たとえば、技術力の低い技術者は問題だといったとして、この問題の解決は、技術者がもっと技術力を高めることが解決なのだが、その実行が憚られるもしくは躊躇われる場合は、技術力の高いアウトソーシング先を見つけることが解決だというふうに論点が移動する。技術力の高いアウトソーシング先を見つけてそこに大金を使っても自社の技術力が向上するわけではない。
オッカムの剃刀は、何かを説明する際に多くの複雑な仮説を置くべきではないという指標だが、シンプルな仮説が真実に近いと云いながら、そのシンプルな仮説が社会的に憚られる内容のときは、多くの複雑な仮説が採用され、結果的に効果的でないことに多くのコストが支払われる。
東日本大震災後、国民の幸福度指数が上昇した事実について、NHKのアナウンサーは「私たちは死ななかったし、財産を失わなかったから」とは誰も言わなかった。かわりに「絆が深まり地域社会との連帯を再確認うんぬん」みたいな、より複雑な説明を採用した。
間違った問題解決は意味がないが、正しい問題解決は有意義なのか。みずから問題を発見し、みずから問題を解決するのがあるべき姿であると思ってやってきたのだが、熱心にやればやるほど、そのせいで他の人が育たないのではないか、という疑念もある。
独力で問題が解けないから回答例を求める。てきぱき回答例をだすと、自然と周りはそれに頼るようになる。結果、独力で問題が解けない状態は変わらない。
空のトレーを持った人が並ぶ「はなまるうどん」のレジ前の行列のようになって、もらった回答を運ぶのが仕事になるとまずい。
最近Tik Tokで「忙しく仕事ばかりしてきて、最近“思い出がない”ことに気が付いた」というGACKTの動画をみて、そうかもしれないと思った。
問題解決は思い出にならない。記憶にも残らない。文学的でもない。ビジネスを度外視していえば、問題解決は全く意味を持たないのかもしれない。問題解決に明け暮れる人生は、つまらなく、味気なく、非文化的であるかも知れない。だからベトナム人の若い女性に「あなたはさみしい人ですね」と言われるのだろう。「わーきゃー」歓声の上がる楽しそうな船内で、ひとり柄杓で水をかき出している人間がいたら馬鹿みたいに見えても仕方がない。
1989年、光GENJI(厳密にはGENJIの5人が主演)の映画『ふ・し・ぎ・なBABY』を観た。ふしぎな力を持つBABYを狙う悪者が車で連れ去り、それをGENJIの5人を乗せたワンボックスが追う。ところが5人の車は白い煙を上げてスローダウン、そのとき諸星くんが言い放った。
「くそっ、ローラーしかねえな!」
「パラダイス銀河♪」を背景に、ローラースケートで敵の車を追うのは、まったく問題解決にはならないが、記憶には残った。ああいうことがその時代の文化的なことだったのだろう。
というかそもそも、20歳の男性が成人式の日にそんな映画を見に行くこと自体が、何の解決にもならない。チケット販売の女性が「これ、光GENJIですよ?」と言ったのは、入場が憚られますよ、という意味だったのだろう。
あの時代は、やさぐれていたのである。