
映画館では、ロバート・ゼメキスの「バック・トゥ・ザ・フューチャー」が大ヒットし、トビー・フーパーの「スペース・ヴァンパイア」がずっこけ、ゲイリー・カーツが製作した「リターン・トゥ・オズ」が誰にも見向きされていなかった。今でもティック・トックと云えば、SNSのTikTokではなく、「リターン・トゥ・オズ」に登場するぜんまい仕掛けの兵隊ティック・トックが思い浮かぶのはぼくだけではないだろう。ぼくだけではないだろうが、そういう人はきわめて珍しいに違いない。ホイーラーズに対抗する強力な腕力でドロシーを守るが、ぜんまいが切れるとたちまち無力化して役立たずになる。このティック・トックを「面白過ぎる!」と評した心理学専攻の女性は、だから非常に珍しい存在だった。慶應義塾大学の研究室棟の横に落ちているどんぐりを拾っては大切そうに持ち歩く、「空」を見るために屋上に上って自殺志願者と間違えられる、ボーリング場までお絵描きセットを持ち歩き、カラオケで「荒城の月」をとうとうと歌うような、静謐で孤高な感性の持ち主であったが、それについては後述するかも知れないし、しないかも知れない。
1985年はNECの文豪とSHARPの書院、富士通のOASYS(オアシス、もしかしてOA systemの略)がワードプロセッサで覇権争いをしていた頃で、当時のパーソナルコンピュータに漢字ROMが付いたところで、日本語入力においてPCは使い物にならなかった。高校生の頃に住んでいた寮に併設した塾の事務所にはワープロ(書院)がおいてあり、キャラクタジェネレータを使って未登録の文字を作成するのが得意だった。一度(寮で)隣の部屋の女性がそのキーボードにコーヒーをこぼして叱られていた。隣の部屋の女性といっても高校生の雅子と中学は卒業したが高校浪人している順子が一つの部屋をシェアして住んでいたが、キーボードにコーヒーをこぼしたのはどちらだったか覚えていない。当時のキーボードには、キーボード用のCPU(intelの8000 series)が入っており、本体CPUの負担を軽減する役割が与えられていた。そのためキーボードはとても高価なものだったのだ。
当時100万円以上したSHARP書院の横にインキュベーターがおいてあり、名古屋コーチンの産んだ卵がガラスの中で並んでいた。新規ビジネスの構想をあたため、やがて立ち上げるといった比喩的な意味におけるインキュベーターではなく、言葉通りの孵化器という意味で使われるインキュベーターは後にも先にもその時をおいてほかに見たことがない。高校にも行かず、一日そのインキュベーターを気にしながら、となりの書院で文章を作成していた。あるときその卵の中の一つの表面を内側から押す生命が発生し、くちばしでタマゴの表面を小さく砕き、疲れてはしばらく休憩し、またくちばしでひび割れを内側から押しだそうとする。気の遠くなるような長い時間が経過して、忘れた頃に振り向くと孵化していた。
この塾経営者の息子(幼稚園生)は「自分のひよこ」だと言って大喜びし、その鶏の雛を大事に育てたが、たちまち他の兄弟たちの中に混じってどれがその雛か見分けがつかなくなった。谷山浩子の「そっくり人形展来会」ふうに云えば、「だってみんなおんなじじゃない!」といったところ。雛はたちまち成長し、みんな同じ顔に見えていたけれど、よくよく見ると違いが分かるようになった。毎日小屋から出して敷地内を自由に歩かせていた。ある時台風が接近する夜、鶏小屋から逃げ出したのか小屋に入れられなかったのか定かでないが、一羽小屋に戻し損ねた。それがとくに可愛がっていた鶏で、暴雨の中探してみたら、隣の田んぼに落ちているのが発見された。敷地の庭と田んぼの間には1メートルの高低差があり、上がって来ることができない。
台風の直撃する大雨と暴風の中、田んぼに落ちた名古屋コーチンを助けようとして、靴も靴下もお構いなしで田んぼに入った。鶏は鶏らしく暗闇に怯え、息もできず前も見えないほどの暴風と大雨の中、手を伸ばしても身を翻し、救済の手から逃れてゆく。ここで捕まえられないと、その鶏を助けられないような気がして、何が何でも捕まえなければならなかった。それは学長の息子にとって大切な鶏であり、どんなに他と顔が似ていても、特別な鶏だったのだ。田んぼを見に来た老人が遠くで何かを叫んでいた。田んぼに入るなと怒鳴っていたのだが、暴風と暴雨のせいで良く聞こえなかった。収穫前の苗がすべて駄目になるかも知れないという大損害の予感を、田んぼに入っている高校生一人の責任に転嫁するより仕方なかったのだろう。
できるだけ鶏を安心させ、落ち着かせ、油断させて、一気に捕まえた。両手でその鶏を捕まえたまま田んぼから上がることはできなかったので、敷地の上から見守る学長の息子に「絶対離すな!」と叫んで手渡した。幼稚園生とはいえ、真剣勝負の顔になり、それを小屋まで連れて行った。嵐の夜はこうして治安が保たれたが、台風が過ぎてしばらくしたころ、案外あっさり鶏は死んだ。東海大学を卒業してこの塾に就職した先生が鶏を殺すときの首のひねり方について話しているのを聴いた。学長の妻であるおばさんがそれを料理し、夕食に出てきて、ぼくらは食べたのである。嵐の夜の善意の救済(と思われたもの)は、殺戮者からの捕縛と処刑を意味していた。人生とはそんなものだ。
この塾には寮に住んでいる中高生のほかに、通学してくる中高生が大勢おり、塾の先生も何人もいた。いくつかのサテライト教室も持っており、先生はスケジュールに従ってあっちこっちの教室を行ったり来たりしていた。これだけの規模のビジネスを独立起業して運営していた学長は、今から思えばすごい人だった。煙草を買いに行くだけでスカイラインGTに乗っていくような身分にあこがれた。ぼくにできたことは、古町の喫茶店に入って800円のブルーマウンテンを注文することがせいぜいだった。当時、古町と云えば歴史的にも文化的にも商業的にも新潟市最大の繁華街であり、これ以上の街は県内に存在しなかった。敷居の高い古町の喫茶店で、焼肉定食と同じような金額のコーヒーを飲むことは、高校生のぼくにとってぜいたくの極みだった。もっとも、その注文を取りに来たのが高校の同じクラスの同級生であり、なんだか急にばかばかしくなった。こんな喫茶店にびくびくしながら入店している自分があまりに幼く、そこをふつうのアルバイト先として働いている同級生があまりに大人に見えて、その対比に愕然とした。
高校は新潟市といっても中心地からは外れたところにあり、前述のように交通の便も悪い。越後線は1時間に1本しか走っていないようなところであり、最寄りの駅から高校までは歩いて20分以上かかった。そんな場所なので、学校はバイク通学を許可しており、YAMAHAのFZRやHONDAのNSRが校舎正面の玄関前にずらり並んでいた。同級生の女性がセーラー服でHONDA VT250Fに乗って通学する姿を写真付きで三条新聞に掲載されていたのを見せてもらったことがある。分水の寮に帰ると、ポチがゴミ袋を破って散らかし放題だった。ポチは鎖につながれておらず、放し飼いにしてあることは珍しいことではなかった。後になって考えてみると、その犬の体にはどこにも「ポチ」がないのに、名前がポチだったのはなぜだろう。さもありなんの適当さで命名され、さもありなんの適当さで飼い主たちはそう呼んでいた。ポチは興奮してごみ袋に突進しては鼻を突っ込み、噛んで中の綿が舞うほど、そこらへん一帯にごみをまき散らしていた。仕方がないからぼくはポチを犬小屋に連れて行って鎖につなぎ、箒と塵取りで掃除していると女子高生になったばかりの順子が帰宅した。ぼくの横を通るとき、「嫌ねえ」と吐き捨てた。そういう時に限って、犬の姿はどこにも見当たらない。使用済み生理用ナプキンの残骸を掃除していたのだと、後になって分かったが、どうすることもできなかった。
塾には若い先生が何人もいた。若くない先生もいなくはなかったが、みんなあまり熱心に働いているようには見えなかった。競馬新聞に赤丸をつけ、タバコを吸いながらラジオ短波で競馬放送を聴いている先生もいたし、釣り具のカタログで最新機種のリールのスペックをチェックしている先生もいた。その人はY先生といって日大の卒業生だった。「新潟でいちばん良いのは新潟大学、東京で一番いいのは東京大学、日本で一番いい大学は日本大学」と、何も知らない田舎の子供相手に教えていた。ぼくも含めて、なるほど、と思った。また別な女性の先生で、東京理科大学の出身者がいて、学習院大学の旦那と結婚して、二人でこの塾で働いている人がいた。旦那は新潟の人であり、東京の大学に進学したところで彼女と出会い、交際した。彼女は東京の人だったけれど、結婚を機に新潟に引越し、旦那の家に入って、同じ職場に就職したということだった。その人が言うには、「成蹊大学で仮面浪人して東京理科大学に入りなおした」ということだったが、ぼくには意味が分からなかった。セイケイって何?という感じだった。おそらく彼女の配偶者の母であるところの姑にしてみれば、東京理科大学が何かも知らなかったに違いない。ガウスの発散定理を理解していることより、びっくり水を知らないことだけで、「そんなことも知らないのか、駄目な嫁だ」となるような、そんな世界だっただろう。
ぼくに数学を教えてくれたのはK先生で、この人は新潟大学の理学部を卒業した人だったが、何しろ文学好きで、ぼくに阿部公房の小説「壁」と、小津安二郎の映画「秋刀魚の味」を激押しした人物である。一度おつかいを頼まれて、新潟市の紀伊国屋までハードカヴァーの「ヤマトタケル」を買いに行かされたが、表紙に傷があるといって怒られた。本は読めればよいものではなく、飾っておきたい本もあるらしい。
このころのぼくは日曜日にやっていた「牧場の少女カトリ」「小公女セーラ」「若草物語」などの世界名作劇場を熱心に視聴し、シベリウスのフィンランディアがインプットされた。学校の休み時間でもバーネットやオルコットを熱心に読んだ。おそらく学長の娘以上に、「ちゃお」「りぼん」「セブンティーン」「別冊マーガレット」などの少女マンガを読み、萩尾望都や佐々木潤子、赤石路代に疲れると、星新一、筒井康隆、小松左京、新井素子などのSFに帰って行った。Y先生とK先生の影響で、小津安二郎や黒沢明の映画を観、阿部公房を読み、ときどき岸田秀やフロイトに脱線した。
隣の部屋ではカーテンだけで仕切った一つの部屋の中で、雅子と順子がそれぞれのラジカセで別々の音楽をかけており、一方がボリュームを上げるともう一方も音量を上げて対抗していた。1985年と1986年の大河津分水のほとりで起こっていた出来事である。