まっすぐな屈折6


宇治川ラインは瀬田川に沿って続く道で、道幅が狭く曲がりくねっているので、ぼんやりしていると反対車線にはみ出して正面衝突というリスクがある。この道を深夜に走るのは物好きだけだし、まして車のヘッドライトを消灯して完全な真っ暗の中を走るのは大変危険なことだった。当時は(たぶん今もそうだろう)街路灯が一つもなく、自動車の灯りを消せば光源が完全になくなるといった場所で、目の前の道路が右に曲がっているのか左に曲がっているのかちっとも分らない。そんな場所で夜の闇に溶け込みたかったのか、いっそガードレールを突き破って死にたかったのか、何度も繰り返しヘッドライトを消して走った。

琵琶湖に水を供給する川は100本以上あるといわれているが、琵琶湖の水を排出する川は瀬田川1本だけである。西日本屈指の大河川であるこの水系の洪水調整や発電目的で建設されたアーチ型コンクリートダムの天ケ瀬ダムを境に、瀬田川は宇治川に名前を変える。その宇治川もやがて淀川と呼ばれるようになって大阪湾にそそぐ。この瀬田川から宇治川にかけての川沿いの曲がりくねった道が京都府道3号線であり、宇治川ラインと呼ばれていた。とくによく走ったのは金曜日から土曜日に日付が変わった深夜で、会社の人からもらったダイハツの古い軽自動車で、天ケ瀬ダムの周辺を走り続けていた。釣り竿を持ってダム湖で魚釣りをしたりもしたが、暗すぎて釣りにならなかった。深夜のダムで釣りをすることもかなり危険なことであったが、足元がよく見えないなかダム湖に落ちなくてよかった。

この宇治川ラインとそこから分岐する府道242号線二尾木幡線(六地蔵の東側に出る)、ずっと北側には山中越京都府道30号線下鴨大津線(銀閣寺の北側に出る)、またそこにつながる比叡山ドライブウェイといった道は、山間部を走る片側1車線の峠道で、道幅が狭く急なカーブが多かった。京都府と滋賀県の県境には比叡山や、音羽山、笠取山地などの山々があり、これらを超えるためのいくつかの峠道があって、当時は走り屋が意味もなくコーナーを攻めていた。ぼくは走り屋ではなかったし、よれよれの軽自動車に乗っていただけなので無茶なスピードを出すことはなかったが、真夜中に消灯して峠道を走るという一層危険なことをしていた。考えてみると、それは若いころだけの話でもなく、年齢を重ねても変わらなかった。実際、オハイオ州のGreenvilleあたりで、レンタカーのキャデラックをそうやってぶつけたことがある。北米の田舎は、夜になると車のライト以外に何も光源がなく、本当に真っ暗になる。


時代的に景気が良かったこともあり、京都には観光名所になっているような寺院が無数にあり、それぞれが寺院内の内装や仏具の更新・修繕に熱心だった。次から次に大量の仕事が押し寄せ、ぎりぎりの納期で寝ないで仕事をしても追いつかないといった状況だった。伝統工芸の職人でさえ立派な車を保有し、スイスの高級ホイールメーカー(ザウバー)のアルミホイールだけで40万円使ったとか、しかもそれを縁石で傷つけたとか、そんな話が多かった。河原町に出れば、車高を低くしたり、さまざまなオプションを装備したりした高級車で、身動きできないほど道路は埋め尽くされていた。三条から四条にかけての河原町通はとくに、ナンパ待ちの若い女性と彼女たちを車に乗せようとする若い男性の交渉が行われていた。タクシーに乗れば、運転手が「前に乗せた客が後部座席で女性を強姦し、困りますわ」みたいなことをわざわざ報告してくるといった、そんな状況だった。街全体が異様な活気に沸いていたが、自分たちでさえその活気が何を目的にしてどこに向かっているのかよく分かっていないような、そんな雰囲気だった。

社長はもっと仕事を取ってきたいし、もっと売り上げを増やしたいと思っていた。仏具屋から受ける仕事では中間マージンを取られるので、直接顧客から仕事を受けるような方法を模索していた。ただ問題は、利益率の良い仕事や、大型案件を受けても、ぼくが仕上げ工程の上塗りをしないことには製品は出荷できず、お金にならないということだった。そしてその最終工程を担える人間はぼく以外にいなかった。他の社員は何人いてもそれは上塗りの準備をしているに過ぎない。その準備作業は人数と時間をかければかけるほど仕事ははかどるが、上塗りはそうではない。たくさん手を動かしたからアウトプットが出るといったものでもなかった。元気よくにぎやかにやるのではなく、野球中継を聴きながら雑談をしながらするのでもなく、一言も口をきかず、空気を動かさず、耳を澄ませ、張り詰めた集中力で頭を使いながら製品に向かうのであり、その日の温度や湿度と相談しながら、漆の気分を考えなければならなかった。

控え目に云ったとしても、ぼくの上塗りはたいへん美しく、漆の表面は鏡のように顔が映った。とくに獅子舞の面やお神輿の屋根、須弥壇の意匠曲面、鳥居や高欄などの障害物の多い構造物、護摩壇や正方壇のような5尺平方(151.5cm2)の広大な単純平面も、上手くいったときには見事に仕上がった。それが評判となり、なお一層仕事が殺到した。もっともそれがいつもうまくいく訳ではなかったので、売り上げを上げたいのにぼくが失敗して製品が納品できない場合は、社長は怒り、怒鳴り、暴力をふるった。社長は自分の手でその上塗りをすることの難易度よりも、ぼくにやらせて、その結果を評価したり、上手くいかなかったことを叱責し、殴ったり蹴ったりすることの方がはるかに簡単であることを知っていた。「手本を見せてくれ」は、社長がいちばん言われたくない言葉だった。

ビジネスのコアとなる実務を行う人間と、その結果を評価しているだけの経営者という関係は、その後さまざまに繰り返し現れてくるひとつの類型となった。この実務を担えるのがたった一人である場合、どうしても会社はこの人間に依存するようになる。その人間の実務によって受注が増え、その人間の奮闘によって会社の危機が救われ、その人間への依存によって売り上げが上がるというふうになったとき、経営者はこの人間に頼りながら、この人間を恐怖する。それはこの人間を失うかも知れないという恐怖であり、この人間が反抗するかも知れないという恐怖であり、また社員が自分以上にこの人間を尊敬するかも知れないという恐怖でもある。中産階級の相対的剥奪感という意味では、一定の立場(会社社長のような地位)を持つ人間は、それを奪われたり、転覆されられたりするのではないかといった不必要な心配をしてしまい、居てもたってもいられなくなる。そんな不安を悟られないように、社長はさらに暴力をふるい、支配・被支配の関係を強固なものにしておかないと気が休まらないのだった。一方ぼくの立場から云えば、自分より優れた仕事ができない人間をどうやったら尊敬できるのだろうか。そういう訳で「手本を見せてくれ」は、ぼくが気を使って社長には言わないようにしていた言葉である。


漆塗りは引き算である。製品の面積が100だとすると、結果的に110くらいの漆を均質に置ければよい。といっても最初から110の漆を広げていくのではない。手早く全体に300くらいの量の漆をふわりと置く。後から足りなくなって追加してもいけない。製品に置いた時間が1分違うだけでも無理がかかる。一か所に置いた漆を伸ばしたり、押し広げたりするのではなく、全域に置いた多すぎる量から引き算する。300→250→200→150と余計な漆を回収しながら、同時に、厚いところと薄いところがないように均質にしていく。引き算し過ぎて100になってはいけない。かといって120の場所を残してもいけない。100では美しさを欠き、120の場所は縮みが発生する。漆が固まっていく6時間くらいの工程の中で、無理がかかるからだ。そもそも漆の濃さの調整が難しく、テレピン油でどの程度まで薄めるか、かき混ぜるへらの重さと相談しながら決めるのだが、製品の大きさや形状によって漆の硬さを調整する。硬すぎても柔らかすぎて上手くいかない。自分の感覚が狂っていると、いつもより硬く感じて柔らかくし過ぎたり、いつもより柔らかく感じて硬くし過ぎたりする。塗り始めてから「違うな」と感じても、すでに手遅れ。やり直すことも簡単には行かない。面積に対してやや多いが無理がかかるほどではない、というぎりぎり110のラインを狙うのだ。

もっとも漆を塗った直後は、製品の形状に合わせて全体に110の漆が乗って均質であったとしても、それがそのまま固まるというわけでもない。漆はラッカー系でもアクリル系でもなく、酵素と水分(部屋の湿度)の重合反応で固まる。水分がなくなって乾燥して乾くのではなく、水を必要としたある種の化学反応で固まるのであるが、その化学反応の速度が梅雨の湿気の多い時期で2時間程度、それ以外なら6時間から8時間くらい。つまりその時間ずっと重力に晒され続けるので、塗りあがりが均質であっても、固まるまでの時間で漆は高いところから低いところに流れてゆくから、結果的に均質ではないところが発生する。塗った直後は美しくても、数時間後に流れが発生してそこが縮んで製品にならないということはよくある。つまり単に均質に塗れれば良いわけでもなく、「流れた結果、均質になる」とでもいうか、均質に固まらせることを考えなければならない。

10尺(3.03m)の須弥壇の意匠曲面は最も難易度の高い立塗りだった。3メートルもある製品に短時間で300の漆を置くこと自体が難しい、そこから不必要な漆を回収しながら110に近づけていくのも難しい、意匠曲面を重力に引っ張られた漆がどのように挙動するのかを計算しなければならない、当然埃をつけてもいけない。その道何十年の大ベテランならできるという訳でもない。3メートルの距離があるのに刷毛を揺らさないで端から端まで歩くのだから、体が動く人間でなければならない。大変な緊張の中、真剣勝負でやり遂げて、逆さまにして室に入れる。逆さまにするというのは埃が付きにくいという意味と、下だったところが上になるので、流れの方向が逆になり、流れにくくなるという意味がある。室というのは湿度管理した埃の立たない部屋のことで、翌朝結果を見て上手くいったかどうかが分かることになる。

あるとき夜の11時ごろにその大きな仕事を行い、息を殺して空気を動かさないようにして製品を逆さまにして、仕事を終えた。金曜日の夜だったので新京極まで映画を見に行き、深夜2時過ぎに帰ってきて気になって須弥壇の意匠曲面を見てみると、漆は大きく流れていて、そこからまた仕事着に着替えてやり直しになる。まず、一度塗った漆がまだ固まっていないとはいえ、そこからふき取るのがまずたいへん。そしてさらにそこから気持ちを作って、また最高難易度の意匠曲面に挑む。終わる頃には朝方になって、土曜日は仕事開始が遅いとはいえ、まともに寝ることができない。絶望と疲労と孤独感と無力感を感じながら、不安と不眠と緊張のなか、それでも納期を守るために凄まじい精神力で「やり直し」の修羅場に向かわなければならなかった。

片手で持てる漆器のように小さいものならともかく、歩きながら塗らなければならないような大きなものを、塗りっぱなしの立塗りができる人間は皆無だろう。漆塗りは製品の大きさに比例して難易度が跳ね上がる。会社の中で、そのレベルでできる人間は他にいなかった。他にいなかったということは、誰もぼくを助けられなかったという意味だ。

その頃観た映画でいちばん印象に残っているのは、「ダーティハリー5のエンディング」で、3回か4回見た。1988年頃の河原町にある映画館では、入替制でも座席指定でもなかったので、一度入ればいつまでもいることができた。もっともどんなに若くて体力があっても疲れ果てていたので、映画が始まるとすぐに寝てしまい、ふっと目が覚めるとクリント・イーストウッドが捕鯨砲の銛を構えているあたりだった。その銛で男は倒され、エンディングになった。次こそはしっかり映画を観ようと決心するものの、次の回が始まるとまた寝てしまい、目が覚めるとまたクリント・イーストウッドが銛を撃とうとしていた。これを朝まで繰り返していたので、エンディングだけを繰り返し見ていて、主人公はS&W社の回転式6連発の44マグナムをなぜ使わないのか、どういう経緯で捕鯨砲を持ち出してきたのか、じつはいまだに分からない。

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