新潟県燕市の記憶4


整形外科に行って電気びりびりみたいなリハビリテーションを受け、貼り薬を大量にもらい、散髪屋に行って短く刈り上げ、ドラッグストアでティッシュペーパーを二列購入して家に帰り、伊勢丹ギフトのウナギとビール(スーパードライとエビス)、加島屋のさけ茶漬けと一口筋子とたらこ茶漬けを実家に送り、国立駅まで一周散歩してから、家に帰る。1980年か1981年に新潟県燕市立燕東小学校でやっていた吹奏楽の演奏曲は何だったかを必死に思い出そうとして思い出せず、一日が終わった。

「ラ#シソ#ラファ#ソド#レ ラ#シソ#ラファ#ソド#レ」というフレーズが含まれていて、クラリネットとフルートとオーボエがあって、バッハのバロック風な感じで静かに立ち上がるとかなんとかいろいろ説明してみたが、ChatGPTを困らせるだけだった。バッハやラヴェルを端から一曲ずつ聞いていく以外に正解にたどり着けない。というか、そうやったとしてもたどり着けないかも知れない。あの曲は何だったのだろう。ずっと昔から気になっている。バッハのカンタータ156番アリオーソが近いけれど、それじゃない。


小学生の頃ぼくは放送委員だったので、放送室で給食を食べていた。放送室にいた女の子がちょうど「ただいま放課後」に夢中になり始める頃だった。彼女たちは「タノキントリオって何?」という流行音痴な人間など相手にせず、録画のないテレビ放送を見逃すまいとさっさと帰宅したので、ぼくは「全校のみなさん、下校の時刻になりました、今日一日も無事に楽しく終わりました・・・」的な放送を一人で行い、ゲインコントロール(マイクの入力レベルを制御するレバー)を下げ、機材の電源を切り、後片づけしてひとりで帰った。当時小学生を怖がらせた都市伝説、いわゆる「口裂け女」が怖いからという理由で一緒に遊ぶようになった女の子も、「ただいま放課後」に持っていかれて、田原俊彦って奴は気に入らなかった。

その頃、近所に住んでいて同じ放送部員だった純が毎日練習していたのが、冒頭のクラシック音楽のフルートパートであり、その音楽が頭にあるけれど曲名が出てこない。それ以降何度もこの曲を思い出そうとして思い出せず、探し出そうとして探し出せない。街を歩いているときに聞こえてきたといった偶然の出会いもない。放送委員だから放課後の吹奏楽の練習に付き合うこともあった。演奏の様子を録画するということで、カメラ機材を準備し、フットライト(照明)をつけ、音楽を録音した。「アオリスのなんとかのなんとか」のような曲名だったと記憶しているのだが、アオリスとは人の名前だったのか地名だったのか、それも分からない。Googleで調べても、アオリスという地名は出てこない。ダーダネルス海峡がエーゲ海に合流した南側のあたり(現在のトルコの西側)は昔アイオリス(英語でaeolia)と呼ばれていたらしいがそれではないし、「STAR WARS」に出てくるアオリス星系でもないだろう。

小学校の校庭には太陽の丘と呼ばれる小高い丘に、二つの遊具(特殊な形をしたジャングルジム)があり、それを吊り橋がつないでいた。鬼ごっこをしているときにその吊り橋を踏み外し、勢いよく転んだ拍子に頭を切って出血した。慌てた先生が自分の車にぼくを乗せて近くの病院に連れて行ったのだが、その吊り橋は以後使用禁止となった。オトナたちの間でかなり問題になったのだろう。そのあとローラースケートをはいたまま後ろ二重飛び(縄跳び)に挑戦して転んだ時に指の骨を骨折したが、その場合は「ローラースケートをはいて縄跳びをするな」と叱られただけだった。至極もっともな話で、ローラースケートにも縄跳びのロープにも落ち度はない。運動神経が悪いくせに無理なことをするので、当時のぼくはケガばかりしていた。


海で死にそうになったことが1回、プールで死にそうになったことが1回あったが、かろうじて事故を回避できた。海の場合は、父と二人で乗っていた舟が横波を受けて転覆し、舟の真下に閉じ込められた。水面に浮こうとしてもちょうどひっくり返った舟底に遮られて水面に顔を出すことができず、意識がなくなった。次に気が付いたときには知らない大人の背中が目の前にあり、近くにいた他人に助けられて一命をとりとめたことが分かった。プールの場合は、体に対して大きすぎる浮き輪で遊んでいて、ある拍子に前のめりになりすぎた。浮き輪が水面に対して垂直に立って、体がくの字になった。頭と足が水中で腹部だけが浮き輪の浮力で持ち上げられる。息をしようと顔を上げようとしても腹部が持ち上げられるので、顔を水面に出すことができない。外から見たらおぼれているようには見えなかったかも知れないが、溺れる寸前に潜水してぎりぎり助かった。プールサイドでは母が友達とおしゃべりに夢中だった。

家に帰れば、父の兄妹か母の姉妹か誰かが子供を連れて遊びに来ていて、ぼくのような一人っ子はちやほやされる傾向にあったが、社交辞令であることは知っていた。両親でさえいざというときはあてにできないと思っていた。なんだかとても冷めた心を持った嫌な子供だった。他人との深い関係に入ることに不安や負担を感じて距離を取るとか、一定以上に仲が良くなることを恐れるといった性質があった。誰も信用できず、誰にも受け入れてもらえないと思っている。そのくせ受け入れられそうになると恐怖さえ感じて身を引いてしまう。感情表現が少なく、自分のことは自分で何とかしなければならないと覚悟している。愛情を求めているくせに愛情に出会うと怖気づく。親切を求めているくせに親切に出会うと後ずさる。心理学的にいえば回避型愛着傾向というのだろうか。どうしてそうなったのか定かでないが、とにかくそのように醸成され、たぶん今も変わらない。


1987年3月に高校を卒業し、分水の寮も退寮し、4月から予備校(代々木ゼミナール新潟校)に籍を置いた。学費を支払ったのは父だったが、父は大学進学して欲しいわけではなかった。さっさとあきらめて、自分の跡を継いでほしいのであり、1年間の猶予期間のようなものだった。とはいえ1年後に大学受験をしたかと云えば結局出願せず、1988年の2月に京都に行くことになった。東京の私立大学には行かせてもらえなかったので、地方の国立大学(新潟大学)だけが許容範囲だった。共通一次試験(その後のセンター試験)の点数が足りなかったので、結局二次試験には出願しなかった。

そうと決まれば話は早かった。息子はあきらめた、というのが家族にとって吉報だった。母は方々に電話をかけ、日本料理の仕出し店に細かく注文を入れた。母の姉妹家族を中心に大勢の親戚が集まって、突然宴会が始まった。本家の息子は京都に旅立つ、それを送り出す会という訳である。当時は幻の銘酒と云われた越乃寒梅が振舞われた。この息子を送り出すことは、就職祝いであり、本家の6代目継承も意味しており、親戚一同にとってめでたいし喜ばしい慶事だった。親戚は口々に「お前のためにいちばん良い」と約束したが、19歳になったばかりのぼくはひとり不愉快な顔をしていた。京都では何が旨いのかとか京都ではどこに行くべきかといった話が様々提案されたが、なぜ京都に行かなければならないのかも分からないし、なぜ父と似たような仕事をしなければならないのかも分からなかった。ただ、1年だけは親の意見に従ってその後は好きにすればよいということを、承知したに過ぎない。

この時のぼくは、説明する相手もいないし、説明する意味もなかったのだけれど、ある種の手応えを感じていた。つまり予備校に通った10ヵ月弱、何の結果も出せなかったといえば何の結果も出せなかったし、ゲームセンターの縦スクロールシューティングゲーム「飛翔鮫」「究極タイガー」に夢中だったといえば夢中だったのだけれど、生まれてはじめて「まじめに勉強した」期間でもあった。代々木ゼミナールのチューターだけが、「1年間で共通一次試験200点あげるのは極めてまれ」といっていたが、結果が出なければ意味がない。スタートが悪すぎたせいでどうにもならなかったが、勉強は案外簡単だな、という手応えを得ていた。

共通一次試験は終わったけれど、国立大学の二次試験はまだこれからという時節、燕市の2月早朝は気温が-1度から-3度くらいまで下がる。大河津分水で余剰な水量を人工的に分岐させ、水害の起きないようにコントロールされた水量が信濃川を流れる。この信濃川が燕市に差し掛かったあたりで中ノ口川と信濃川に分流する。40kmほど下流に離れた新潟市港南区あたりで再び合流し、さらに15kmほど流れて日本海にそそぐ。燕市からするとこの二つの川(中ノ口川と信濃川)を超えて東に進んだ場所(海から離れたところ)に東三条駅があり、この駅には信越本線が通っている。信越本線は直江津までだが直江津から金沢までは北陸本線に変わる。

宴会の次の日、父と母と3人で東三条の駅に行った。父は駅前の県道に路上駐車した。父は何かを言いかけたが、母に小突かれ言うのをやめた。そのようなことが1日数度あった。父はそれ以上話してはいけなかった。母は前向きなことを言うように心がけた。ぼくは1年くらいすぐに過ぎると思っていた。北越という特急に乗って、約5時間かけて金沢まで行き、そこから雷鳥という特急に乗り換えてさらに約3.5時間かけて京都に着いた。商業施設のガラス扉に「阪急」と書かれた見慣れない社名があり、外に出るとローソク型の京都タワーが立っていた。駅前の京都第2タワーホテルに宿泊し、父と母は落ち着かないふうだった。重要なことや決定的なことを避けてやり過ごしたいといった、そんな雰囲気だった。どうも居心地が悪く、ぼくはひとりで1階に降りて薄暗いロビーのソファーに座っていた。

思い出すことのできない音楽を必死に思い出そうとしていた。小学校の体育館から聞こえてきていた吹奏楽の音楽のことを思い出そうとしていた。純が練習していたフルートの音楽は何だったのか。ロビー隅の公衆電話では、スウェットを着た女子高生が親に電話をかけていた。

「明日はみんなカボチャだと思うことにする」

1988年の京都大学2次試験前日のことである。

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