
昔、父は家から車で15分くらい離れたところに123坪の土地を買って、仏壇仏具の木地や資材置き場兼空き地としていた。その倉庫は土地全体の6分の1程度の面積で、残りの部分は空き地、もしくは祖母が元気なうちはイチゴなどを育てる畑にしていた。ナメクジやカタツムリはイチゴが大好物らしいけれど、藁を嫌がる。その上を歩く(?)と体が乾燥するからだろう。したがってイチゴはStraw(藁)の上で育てるのであり、だからstrawberryと呼ばれるようになった。とにかく藁を敷き詰めた畝からイチゴを取って食べた記憶がかすかにある。
その倉庫と空き地もしくは畑に家族で訪れ、広げたレジャーシートの上でおにぎりを食べてお茶を飲んだ。建物の近くに何本かの柿の木があり、うっかりこの木に近づくと、クロシタアオイラガに刺されて酷い目に遭う。最近母はこの土地を二束三文で手放したのだが仕方がない。父は息子のために土地を残したのだろうが、その息子は家業を継がず、東京に行ったきり戻ってこない。不動産の価値は人口減少に比例して下降するものであり、地方はとくに人口減少、少子高齢化、どこもかしこも空き地だらけの土地あまりとなった。伸び放題の雑草を刈り取らないと近隣住民から苦情が出るので、維持管理のコストと固定資産税を毎年支払うことになり、資産なのか負債なのか分からなくなっていった。
もっとも2メートル幅の農業用水をまたぐコンクリート橋を渡って、茶色のトタン壁のみすぼらしい建物、その灰色の錆びたシャッターを力任せに押し上げると、中からかび臭い淀んだ空気が流れ出てくる。草むしりを命じられ、水平方向に這うように広がるスベリヒユと格闘し、引っこ抜こうと持ち上げると蔦上にのびる茎がどこまでも地面にしがみついている。その手の感覚や空気感が鮮明に蘇る。そういう風景は記憶に残るものだ。
もともとうちは5人家族だった。父側の祖父と祖母が一緒に暮らしていたので、お茶のときは湯呑が5つ並んだ。父は5人兄弟の長男で、祖父の跡取りであった。上に二人姉がいて、下には妹と弟がいた。女3人は嫁に行き、弟は競馬の騎手になったが、落馬事故で車いすの生活となった。母は5人姉妹の真ん中で、いちばん上の姉が婿を取ったが、ほかの妹たちはすべて嫁に行った。戦前の家制度の名残か、いわゆる本家と分家という言い方をするなら、生まれ育った家は長男の家であり本家だった。祖父が長男だったからという意味なのか、父が長男だったからという意味なのか、じつはよく分からない。とにかくうちは本家と呼ばれていた。分家や親戚の人たちがことあるごとに訪れ、集まった。世間話に次ぐ世間話で、一人お客が帰ってもまた次のお客がやってきた。お盆や年末になると、床の間周辺には中元や歳暮の貰い物がたくさん並んだ。
父は横山大観や川合玉堂の掛け軸を床の間に掛けて鑑賞していたが、季節によってかけ替えたりしていた。柱には精工舎(現在のセイコー)が昭和初期に製造した木枠で振り子のついたぜんまい時計が動いていた。ぼくはローマ数字の内側の穴にねじを入れてぜんまいを巻くかかりだったが、掛け軸には触ったことがない。最近帰省した時に、押し入れの中にあるこの掛け軸の話になり、ぼくが「燃えるゴミに出したら?」と云ったら82歳の母は激怒していた。
昔は親戚の数も多く、従妹の数も多く、子供の数も多かった。それぞれの子供が1年たつたびに1歳ずつ年を取っていった。必ず誰かが毎年進級し、必ず誰かが毎年進学し、必ず誰かが毎年卒業した。お年玉も入学祝も結婚祝いも離婚のお知らせも様々届いた。生まれてくる人もいたし、死んでいく人もいた。新しい季節を出迎えるように、古くなった季節を見送るように、新しい人と古い人の出会いと別れも自然な成り行きのようにして、近づいてきては通り過ぎて行った。
年末になると忘年会、年が明けると新年会、親戚が子供を連れて大勢集まった。父の姉は他県から家族を連れて泊まりにきた。だから押し入れにはお客様用の寝具がいつも用意してあった。考えてみるとぼくは、長男の、長男の長男みたいな立場にいたのであり、どことなく家に責任を持つべき立場だったような気もする。ぼくにとって祖父・祖母といえば父方の父と母のことであり、母方の父と母のことではなかった。そういう認識を持つこと自体が、家父長制的な家制度に拘束されていたということなのかも知れない。
1970年代・80年代の燕市は、というか少なくともぼくの周囲では、どこの誰がどうしたのこうしたのという話であふれ、人生の浮沈と事業の盛衰、会社の栄枯や学業の成敗、他所の人々の進退と悲喜について、ぼくにはどうでもいいような話ばかりだった。自分の仕事のことになれば、「景気が良いか悪いか」に終始し、なんでも景気のせいになっていた。誰も本など読まず、文学の話は聞いたことがない。それでも毎日新聞だけが配達されていた。新聞は朝刊しか届かない地域であり、京都に行くまで夕刊の存在は都市伝説だった。もっともその朝刊にしても、経済や政治の記事を読む人がどれほどいたのか疑わしい。新聞は主に野菜を包むか生ごみを捨てるときに役に立つといったものであり、情報ではなくマテリアルとしての「紙」に需要があっただけだろう。
そんな他人の噂話ばかりの閉鎖的な田舎の社会が我慢できず、祖父にもらった名前を自ら改名し、自分の人生を歩き出そうとしたのに落馬事故が原因で、結局そうした田舎の社会の世話になるしかなかった父の弟の無念を、ときどき想像したりする。そういう田舎の保守的で閉鎖的な社会の中で、外の世界に飛び出すことなど考えなかった人々も、飛び出そうとしたのに上手くいかずに戻ってきた人々も、不本意ながら自分の力で自分の人生を歩くことができなかった人々も、その土地で生きていくしかなかったのだ。若い人はかなり東京を目指して故郷を離れたけれど、東京で頑張り続けることができる人も実はそう多くはない。それでも毎年分水の花魁道中が催され、飛燕夏祭りが催され、白根の大凧合戦が催され、長岡花火が打ち上げられた。
やがて祖父がいなくなり、やがて祖母もいなくなり、やがて父もいなくなった。お茶の湯気は一つずつ数を減らし、家族も減少の一途。冬の夜にコーヒーを淹れると、一人暮らしの部屋に一つだけの湯気がゆらりあがった。そのうちやがて、中島みゆきが云うところの「故郷」、つまり自分が生まれ育った場所ではなく、次の世代を担う子供たちにとって「故郷」と呼べるような場所を建設することができるのであれば、湯呑の湯気も増加に転じるかと思えたが、案外そうもならず、その一つ限りの湯気もやがて雲散霧消して見えなくなる、といった公算が大きくなった。
あるとき学長が塾に通っている、もしくは寮に住んでいる中学生・高校生の主要なメンバーに一枚ずつ色紙を配って、サインを書きなさいと言った。今は無名な人間だが、そのうち有名になってその色紙に価値が出るかもしれないから、という理由だった。ぼくは水沢めぐみの漫画「ポニーテール白書」の結が走る絵を描いて、「戦場のメリークリスマス」の何かを引用した散文を書いた。
いつかとまるかも知れない
次の瞬間転ぶかもしれない
でも遠くで火が燃えている
待ちわびたもののために
かくして誰かの役に立つわけでもなく、なにものかになれたわけでもなく、虚ろな蜃気楼のように揺らいで消える運命だ。喘ぎ喘ぎ地べたをはいつくばって右往左往している人生を往く以外に仕方がない。
分水での生活を終え、退寮するとき、赤石路代の「アルペンローゼ」全巻を見送りに来たひとつ年下の高校生にあげて、父の車に乗った。この人にはいずれまた会うことができるだろうと思えたので、振り返りもしなかったが、それから39年会えていない。帰りの車の中で、コンポーネントステレオのスピーカーがほしいという話をなぜかしていた記憶がある。途中父と母と三人で和食の店に入り、うなぎを食べたが、うな重なのに丼で出てくるのは邪道だと母は言った。
家に帰れば例のごとく、親戚のおばちゃんが一人ずつ見に来ては当たり障りのないことを言って満足げに帰って行った。相変わらず家の継承問題は決着せず、双方の意見はいまだ平行線をたどっていた。母も相変わらず、どこの誰々は親の言うことをきいて何々になったとか何々を継いだとか、そういう他所の話を思いつく限りしていた。親戚は「お前は手先が器用だから親の跡を継ぐのがいちばん良い」ということを口々に言ったが、責任が取れる人と保証ができる人はひとりもいなかった。
高校は卒業し、分水の寮生活も終了し、家の跡を継ぐ気もなく、横山大観の掛け軸をうすぼんやり眺めながら、静まり返ると、南部鉄器の鉄瓶のお湯が沸く音とぜんまい仕掛けの柱時計の振り子の音だけが聞こえてきた。