新潟県燕市の記憶


ぼくは36歳を超えて、はじめて社会に出た。31歳で入った大学は、1年留年したせいで、卒業は36歳になった。もともと社会に出ているといえば云えなくもないが、国民年金の学生納付特例を毎年申請して、返済が必要な奨学金を借り、アルバイト以外ではお金を使うだけでしかない立場というのは、狭い意味での「社会に出ている」ことにはならない。自分の支出を上回るお金を稼ぐ立場になってはじめて「社会に出た」というのが妥当だろう。

高校卒業後、京都にいた10年間は給与所得者だったのだけれど、また違った力学と経済と精神世界であって、いわゆる一般的な社会とはずいぶん大きな隔たりがあった。


もともと実家は地方の小さな商店街の中に仏壇・仏具を製造・販売する店を構えていて、父が5代目でぼくが後を継げば6代目というところだった。通産大臣指定の伝統工芸士であった父は、一人っ子の息子に後を継いでほしかったのであり、それ以上に良い考えは浮かぶことはなかったのだ。その当時は、右肩上がりで消費が拡大していて、新規で仏壇・仏具を購入される場合だけではなく、古い製品を新品同様にリニューアルする需要、また寺院の内装や設備の修復、更新などの仕事も多くあり、父にとって手伝いを置くことは喫緊の課題だったが、誰でも良いということもなく、他人を弟子に取ることは考えていなかった。かりに息子が手伝ったとしても、仕事を分担できるところまでスキルを高めるにはかるく10年以上はかかるはずだが、そういう計算はまるでしているようには見えなかった。ただ二人でやれば売上が2倍になるといった、そんな漠然とした考えだけが頭の中にあったようだ。

高校生だったぼくは若者らしく親に反発したかっただけなのか、それとも、なんとなく時代の空気感を察知していたのか、今となっては分からない。たんに親に反発していただけのような気もするし、変わりゆく時代感覚をなんとなく察知していたような気もする。とにかく親の跡は継がないと言い続けてはいたものの、ではその代わりに何をするのか、皆目見当がつかなかった。中学以来ずっとプログラミングを書いていたものの将来IT系に行こうなどとも考えてはいなかった。そもそもIT系という業界自体がその当時には存在しなかった。中村光一が「ドアドア」でエニックスのホビープログラムコンテスト準優勝を取ったことを、雑誌「I/O」などで知って、ただただ尊敬していたような時代である。パソコンやプログラミングの世界で仕事をしていくのは一部の人だけで、自分などでは到底たどり着くことのできない領域にいる人々であると考えた。かといって、会社で働いている人というのが案外身近におらず、イメージすることも難しかった。


新潟県燕市は、後にアップルiPadの背面鏡面仕上げの研磨を担うほどの磨き職人の技術が高く、日常的にはナイフやフォークなどの洋食器を磨いている家が多かった。町を歩けば洋食器を研磨する音とプレス金型で0.数ミリの鉄板を成型するプレス機の音が聞こえてきた。どこを歩いても似たような音しか聞こえてこなかった。プレス金型といっても燕市にある多くの会社は小規模な零細で、自ら金型を設計することはない。取引先から与えられた設計資料から金型を製造する会社も多くはない。10~20トンのプレス機を30~50万円くらいの中古で購入し、取引先から金型を貸与され、プレス作業だけを行う。金属板のセットとプレス機の操作、バリ取りと寸法の確認くらいで、スプーン1個5円くらいの工賃だろう。数をこなそうと不注意にやれば、手の指を切断することになる。

研磨の工程では、10~30万円くらいの中古のベルトサンダーがあれば、誰でも磨き屋を開業することはできたが、スプーン1個2円くらいの工賃にしかならない。それでも職人たちは次の仕事ももらえるように技術力を競い、品質の高い仕上がりを目指した。あまりに途方もなく、あまりに果てしもなかった。それでも人々は結婚し、子供を何人ももち、曇り空か雨模様の空の下で、家族のために辛抱強く、忍耐強く、狂気じみたプレスと磨きの仕事をやり続けた。もっと入ってくるお金を増やすには、プレス工ではなくプレス金型の製造ができた方が良いとか、さらにお金を稼ぐには製造より設計ができた方が良いとか、そういうことを考えた人も多かっただろうが、そのための先行投資を行うことができず、結局ただただ辛抱強く、機械の操作だけを行う。入ってくるお金を増やすより、出て行くお金を減らすことばかりに頭がいき、結果的にきわめて保守的な思考になった。

冬は大雪が降り、町中華の飲食店には、そのような職人の家から出前の注文が入る。ラーメンが配達途中で冷めることがないように、スープ表面を背脂で覆うようになった。脂で覆われたスープ表面からは湯気が立たず、一見冷めているのかと勘違いしてうっかり口をつけるとやけどする。そうこうして、いわゆる背脂チャッチャ系と呼ばれる燕三条系ラーメンが発展することになった。道路に積もった雪を溶かす目的で設置された消雪パイプは地下水を利用したが、この地下水が鉄分を多く含むために、この町の道路はどこもかしこも茶色に錆びている。

そういう土地柄でぼくは生まれ、そういう大人の姿を見てぼくは育った。研磨やプレス金型の下請けは、あまりに地道で、あまりに気の遠くなるような仕事だった。家の跡を継ぐのも嫌、製造業の末端で働くのも嫌、農業も嫌、自営業はそもそも何をして良いのか分からない、まともな会社勤めの人は周辺にいない。だいたいそのような状況であっただろう。


冬は猛吹雪の越後平野で、あるいは遥かに見晴るかす静まり返った大雪原で、夏はせみ時雨のコナラやクヌギの林から見渡す田園風景で、ときどき遠くに新幹線の明かりが見えて、東京に向けて走って行く線形の光の帯を眺めていた。大きな川の土手に行く以外に、坂道を見つけることはできない。どこまでも平坦な土地で、上り坂もなければ下り坂もないきわめてフラットな世界で、見上げるものもなければ見下すものもなく、何もかもが同列で、良くも悪くも平等で、水平方向にだけ広がった風景の中を、季節だけが移ろっていった。

とくに何がしたいわけでもなく、何になりたいわけでもなく、中学から高校に進学するときさえ、一つも勉強しなかった。もはや選択肢もなく、学校の先生や親の言われるまま、新設の私立高校に進学するよりほかになかった。高校は新潟市にあり、自宅から電車を乗り継いで1時間半くらいかかる距離にあった。

希望者は誰でも入れるような地方の新設の私立高校で、燕市から見たら少し「都会」にある学校だったが、そのうち学校にも行かなくなった。その高校を卒業しても卒業しなくても何も違いがないと感じていた。

当時の越後線は1時間に1本しかなく、乗り過ごせばあと1時間待たなければならなかった。電車に乗ったとしてもそこからが長いので、はるばる家に帰り、はるばる学校に行き、そういう毎日の繰り返しの時間投資に見合う何かが得られているという感じもしなかった。父の跡を継がないという息子の考えが気に入らず、学校にも行かなくなったことが気に入らず、とにかくふつうじゃないといって母は慌てふためいた。


心配した親が相談した先が、隣町(分水町)で塾経営を行っている人であり、その人は塾のほかに寮を併設していた。高校浪人をしている人や不登校になった人、その他問題児(少なくとも親から見て問題だと思われている中学・高校生)などが7~8名住んでいて、ぼくはその寮から高校に通うことになった。

そのうちの一人はダリル・ホール&ジョン・オーツの大ファンで、東京公演に行くことを親に止められ、大げんかしていた。地元の進学校受験に失敗して高校浪人する人と「北斗の拳」の話しかしない人、東京からやってきて田舎のすべてを見下す人などがいた。高校生の女性が二人いたが、もはや家族のような感じで、同じ釜の飯を食い、同じ風呂に入っていた。塾経営者は、塾だけの子供と塾+寮の子供に分けて、それぞれの親から報酬を得ていたはずであるが、うちの親がその寮に毎月いくら支払っていたのか、分からない。夏は肝試しを行い、怪談のビデオを鑑賞し、バーベキューを行った。大きな河と海と山があり、自然で遊ぶことには事欠かなかった。ポチ(犬)の散歩がぼくの役割で、ときどき買い物を手伝った。名古屋コーチン(という種類の鶏)や鶉(うずら)などを飼っていて、その重たい飼料を歩いて調達した。

分水町は、のちの市町村合併によって燕市の一部になったが、実家からは車で30分くらいかかる距離にある。東京奥多摩町の西にある甲武信ヶ岳(こぶしがたけ)を水源とする千曲川は、長野県を経て信濃川と名前を変えて新潟県を蛇行する。この水害と治水の目的から建設されたのが大河津分水であり、水嵩の増した信濃川の水を日本海に放流する目的で作られた。大雨時には信濃川の約8割の水量を流したこの人工の放水路は、その川幅が最大300メートルにもなり、日本最大級である。川の周辺は農業用地として利用され、堤防直下や管理区域内は立ち入りが制限されているところもあるが、川の周辺は大体が農業用地として利用され、農業用水が張り巡らされている。農業用地といっても誰一人として人の姿は見えず、200m向こうの対岸にも動くものの姿はない。大声で叫んでも誰にも聞こえない。土手の上には、何のためにあるのか分からないテトラポットが積み重ねられている。1時間に1回、遠くの鉄橋を越後線の電車がのろのろと渡っていく。

リードを外したポチは全速力で土手の斜面を疾走し、行ったり来たりを繰り返す。もはや疲れ果ててとぼとぼ戻ってくるまで、ぼくはテトラポットの上で大河を眺めて座っていた。


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