1983年にSHARP X1DというパソコンのHu-BASICで書いたゲームのプログラムがテクノポリス(当時はパソコン雑誌)の別冊プログラムポシェットに掲載された。
Hu-BASICは今でいうところのいわゆるスクリプト言語である。人間の言葉に近いという意味で高水準言語であるが、一方コンピュータには分かり難い言語であるため、1行ずつHu-BASIC→機械語に変換するため実行速度が遅い。
そのゲームのプログラムと説明と作者の写真とコメントが掲載され、原稿料として5,000円いただいた。
ぼくの書いたプログラムはそのまま掲載されたものの、ゲームの説明文章がすべてリライトされていてショックを受けた。何度も推敲し、書き直した文章は、一行も使われなかった。
昔から、というか、子供のころから勉強ができないことは自覚していたものの、はじめて社会から「あなたの書いたものは意味不明です」と突き付けられたように感じた。当時、中学3年生。
今になって見ると、それが自分史上大事件だった。雑誌へのプログラム掲載よりも、書いた文章が通用しない、という衝撃の方がはるかにインパクトの大きい経験だった。
それから時が流れ大学受験の勉強をするときに、国語を熱心に勉強したのは、国語コンプレックス解消の意味もあったかも知れない。
とはいえ、そこは日本の大学受験で、とりわけ私立大学の文系学部となれば、どこも英語の比重が大きい。英語の勉強時間:9に対して、国語:1くらい。
社会人になってから、勉強のし直しというかリスキリング的なことがよく言われるが、再び英語や数学を勉強するという話はよく聞くものの、再び国語を勉強するという話は聞いたことがない。受験勉強のときに後回しにされがちなのは国語だし、後になってから学び直しされないのも国語である。
国語力の重要性
ところが社会に出てから、国語力の重要性がわかってきた。相手の言っていることを要約できること、自分の言いたいことを短く伝えられること、わかりやすく説明できること、読みやすい文章が書けること、などは大変重要な資質だ。
例えば会社の上司は、それがどんな問題なのか理解したいと思ったときに、誰から説明を聞くのが一番わかりやすいか、を考える。自分の指示を社員全体に伝えたいときに、自分の意図を正確に理解して、自分の言いたいことを社員全体にしっかり伝えられるのは誰か、を考える。そういうとき国語力の高い人間は重宝される。
取引先の担当者が営業に質問するのは、自分の興味というよりも、上司への説明に必要だからだ。営業の提案するサービスに参画するには、社内の稟議で決済を取る必要がある。
なぜそうなるのか、どうしてそれが必要なのか、支払うコスト以上の有効性があるのか、上司に説明するにあたり、分かりやすく要領が良く、説得力のある説明をしなければならない。
営業担当の作った資料をそのまま稟議に書いて決済がもらえるような、そんな説明を欲している。ビジネスを動かすには高度な国語力が必要なのだ。
国語力は社会におけるポジショニングや年収額に、かなり密接な関係がある。
仕事で英語を使わないのであれば、英語の勉強に費やした膨大な時間はあまり意味を持たない。というか、英語にさんざん時間と労力をかけた割に、たいしたリターンがない。
それに対して国語は、誰も熱心に勉強してこなかったし、社会に出てから再度勉強を行うこともないのだが、ここに投資した時間と労力は大きな影響を及ぼす。
なんとなく日本に生まれて、日本語を母語として生きてくると、あまり国語を勉強する必要性を感じないものだが、これは大間違いだった。国語こそ勉強するべきなのだ。