
ちょうど今首を突っ込んでいる建築系の案件で、内装の施工図面を描く仕事がある。「納まり」とか「下地」ということを理解して、施工を意識した図面作成を求めている。製造業でいうと、「製造」や「加工」のことを意識した設計が必要なのと同じで、施工しやすい設計が必要だという。この下地の重要性は建築の基礎に通じるところがある。施工されてしまえば下地は誰の目にも見えなくなり、表面の美しい意匠や設(しつら)えだけが注目される。もっともエルメスやルイヴィトンなどハイブランド店舗のラグジュアリー内装は、店に入ることもないので意匠や設えを目にする機会もないのだけれど。
この設計資料であるところの図面というやつは、業界というか技術分野によって意味合いがかなり異なる。製造業における図面は非常に重要なものであるが、土木・建設系ではそこまで重要ではない。重要ではないと云ってしまうと語弊があるが、分かりやすくいえばそうなる。製造業では、たくさんの人が繰り返し長い期間参照する「会社の貴重なリソース」であるのに対して、土木・建設業では一部の人が一定期間だけ集中的に参照する指示書のような扱いだ。製造業が同じ製品を大量生産するのに対して、土木・建設業では完全に同じ道路や橋は存在しないから、図面の使いまわしができそうでできない。施工したらもうその図面は要らなくなる。後になって修繕・補修したり、メンテナンスを行ったりするときに図面を引っ張り出してくることはあるだろうが、製造業と比較すると「図面が会社の資産である」といった感覚はない。建築のラグジュアリー内装についても、基本的には「1点もの」であり、他への使いまわしができないので、その現場の施工が終わってしまえば、もう図面を参照する機会もなくなるだろう。そんなわけでその2D図面や3Dモデルを作成するのに使用するツールやアプリケーションにかけるお金も違ってくるのであって、何百万円もするようなハイエンドCADを土木・建設系に使用することは、ふつうない。
漆工芸においては、図面を引くという仕事は仏具屋か木地屋にはあったかも知れないが、漆工業にはなかった。漆を塗る工程ではすでに形は出来上がっていて、中塗り・上塗り前の下地の工程はいくつもあったが、もともとの形状が変形するほどのことはなかった。何層にも重ねられる下地の工程も上塗りに近づくにつれて下地表面の粗滑度(そかつど)が高くなっていく。石の表面でたとえると、粒子が荒く、軽石のように表面がざらざらしている状態から、大理石のように表面が滑らかでつるつるしている状態に変わっていく。滑らかになればなるほど、上塗り(仕上げ)を行っても大丈夫な状態に近づいていく。下地の最終仕上げは、墨研ぎと呼ばれ、製品表面を水で濡らして墨で研いだ。墨研ぎの終わったものをぼくが上塗りを施して製品にしていくのだが、ぼくの調子が悪いと、最終仕上げの終わったものをことごとく不良品にしていくので、せっかくの下地が台無しになる。
ぼくより2歳ほど若い職場の先輩は、17歳にしてプロに匹敵するパチンコ打ちだった。彼は文句も言わずにいつもぼくの失敗作を直してくれた。彼にしてみればぼくの下手くそな上塗りのせいで、同じ仕事を2度3度とやり直すことになるのだった。サンドペーパーの320番は粒子の大きさが44㎛(マイクロメートル)、220番は68㎛、粒子が大きく荒くなればなるほど、研ぐのにかかる時間は短縮される一方で、製品に深くて大きい傷をつけることになり、上塗り後の漆の美しさは損なわれる。粒子が小さく細かくなればなるほど、研ぐのにかかる時間は長くなるが、きめの細かい滑らかな表面に仕上がり、上塗りの美しさは際立った。墨は極めて粒子が細かく、まるで柔らかい布で擦っているようなものだから、製品に大きな傷はつかず、上塗り後の漆の美しさを最大限に引き出すことができるのだが、研ぐのに気の遠くなるような時間がかかるので、320番のサンドペーパーと墨を組み合わせて使うのが常だった。
そもそも「研ぐ」とか「磨く」というのは、目の粗いもので傷つけるか目の細かいもので傷つけるかの違いしかなく、傷をつけるという点においては共通している。目の粗いもので擦れば材料は大きく削れて形状さえ変化するし、目の細かいもので擦れば磨かれて光沢がでる。これは粒子が大きいか小さいかの程度問題であり、磨くというのは、きわめて細かい傷を無数につけるということに他ならない。粒子が大きければ人間の目には傷に見えるし、粒子が微細ならそれによってついた無数の傷は光沢になる。光を乱反射させずに滑らかに見えるからだ。数えるほどの傷はただの傷だが、無数の傷を受けると“磨かれた”ことになるのだろう。
樹脂系天然塗料である漆はぼくの手を汚し、水で洗っても落ちることはない。何日も放置すれば皮膚の新陳代謝とともにはがれてゆくものの、毎日その仕事をしていれば新しい漆が毎日つくので、汚れ方が変化するだけでいつまでたっても手は汚れたままになる。五条大宮にある五香湯のサウナで外国人に注意されたり、椥辻にあるJill-Bellの店員に「バイクでコケはったん?」と訊かれたり、洛東自動車教習所の教習指導員に迷惑がられたりした。それは油性マジックで書いたものがなかなか落ちないのと同じことで、いくら注意されてもどうすることもできなかった。ぼくはその汚れた手で、鉄板のお好み焼きをひっくり返し、レンタルビデオの延滞料金を支払い、甲子園球場に持っていく弁当を自作し、眠眠の餃子のたれを作り、琵琶湖に投げたルアーのリールを巻いた。
町内の祭りでは綿がし(東京では、綿あめ)屋を担当した。綿がし機にザラメを入れて、遠心力で加熱された砂糖が糸状に伸びてくるのをスティックでからめとった。綿がしは糸状の砂糖をからめとることよりも、その形状をできるだけ損なわないようにキャラクターもののビニール袋に入れることの方が難しかった。ものを買って会計するときに汚れた手を出すことも躊躇われたが、何かを売る側になるとなおさら気が引けた。スナックのママに若い女性を紹介されたときも、咄嗟に長袖の中に手を引っ込めるしかなかった。今となっては外見を気にするような立場にはないのだが、当時は二十歳そこそこで、いつも漆で手が汚れているというのは小さくない問題だった。
1988年のある日、ここに10年いなければならないということを知った日、京都市山科区の勧修寺の住宅地にあった深夜の電話ボックスで母に怒鳴り散らしていた。電話の向こうでは、母が父の言葉をさえぎっていた。京都に行くのは1年だけという約束だったのに、すでに自分のいないところで10年預ける約束ができていたとは、どういうことなのか。父の跡は継がないとずっと言い続けていたのに、父の跡を継ぐための修行に10年も縛り付けるとは、どういうことなのか。職業選択の自由がないのか。親は子供の自由をそこまで奪う権利があるのか。自分は拉致されているのか。あまりに腹立たしく、あまりに理不尽だった。ぼくは親に嘘をつかれていたのであり、親に騙されていたのである。当時の夜間は、最も長距離電話の割引率が大きかったが、それでも緑色の公衆電話は30秒ごとに10円を飲み込んでいった。
何を叫んだところで500kmという距離を隔てているのであり、ぼくの怒声は周辺住民には迷惑な騒音でしかなかった。19歳という年齢で、10年という期間は人生の半分以上の長さであり、その長さを「だいたいこのくらいの期間」というふうに感覚的に認識することさえできなかった。期間の長さもさることながら、やりたくもないことに従事させられるということがたいへん辛かった。ふつう人間はやりたいことが出来ないとか、欲しいものが手に入らないとか、なりたい自分になれないとか、そういうことに不幸を感じそうなものだけれど、欲しくもないものを持たされる、やりたくないことをやらされる、目指したくないことに向かって走らされるということが、どうやっても納得できず、我慢できないものだった。
このときはじめて両親に対する殺意をもった。京都から帰ったら殺してやる。中学生くらいの頃から両親とは仲が悪かった。両親からすれば息子がとても手に負えなくなったので、実家においておけなくなって分水の寮に預けることにしたのだ。昔から父も母も頭が悪くて話にならないと思っていたが、ついに深刻な実害が及ぶようになった。この両親の頭の悪い判断のせいで、すでに自分の人生はダメになった。29歳までこんなことに従事すれば、人生を軌道修正しようとしてももう引き返せなくなる。この10年間によって無数にあった選択肢の大部分は一気に失われ、さまざまな可能性は極めて限定された一本道に変わった。その道はまるで追い越しのできない片側一車線の道路で、路肩に止めて後続の車を先に行かせることもできないし、Uターンして引き返すこともできない。これ以上先に進みたくないのに、どんどん後ろから圧力がかかって、破滅に向かって押し出されていく。往けば往くほど年を取り、進めば進むほど帰れない。もはや破滅だ。電話ボックスから出て、そこにあった空き缶を思い切り蹴り飛ばした。水銀灯の点在する深夜の住宅地に、カンカラカーンというけたたましい音が鳴り響いた。すぐ近くにZ31系フェアレディZがとまっていたのをなぜかよく覚えている。
こうしてぼくは土砂降りの一車線の道路を往くことになり、引き返すこともできず、立ち止まることもできず、決して教育や成長のためではなく、たんに自分の不満を解消するはけ口として毎日殴られ蹴られ、怒鳴られる日々を送ることになった。ハローワークから次々に紹介された新人が会社に入ってきたけれど、1週間から2週間の間で全員辞めていった。会社は新しいビルに変わり、最上階に職人の住む住居を併設したが、そこに入った新人は夜逃げのようにして、朝になると荷物ごと姿を消していた。社長はその都度その人の親を叱責し、プレジデントとクラウンとハイエースに分乗して逃げた人間の捜索が始まった。「見つけたらただじゃおかない」といった感じで、京都の街を走り回った。そういうふうに退職者の追跡と捜索も、ここでは立派な「仕事」なのだった。車に同乗したのは下地係の職人たちで、逃げた人間の悪口を言い合って、まるで自分たちは正しく、正義であると言わんばかりだった。ある人間は走っているハイエースの窓から、マクドナルドのゴミを袋ごと道路に投げ捨てた。ぼくが注意すると逆切れした。ルールもマナーもなく、不良のように振舞うのが正しく、走っている車から袋ごとごみを捨てるマッチョな自分かっこいいみたいなことか。あまりにばかばかしく、あまりに常軌を脱していた。
ぼくは不良と呼ばれたことはなく、不良になった覚えもない。といってものわかりの良い子供だったわけでもない。中学校の時の担任に対してぼくは非常に反抗的だった。先生は何度もぼくを叱責したが、その言葉には一つも共感できなかった。先生はぼくから素直な反省を引き出そうと努力したが、ぼくはかたくなで、自分には何一つ反省するべきところはないと思った。どんな理由でそうなったのかは今となっては記憶にないけれど、とにかく謝れば済むことをいつまでも謝らなかった。ぼくは先生の職業的な、とってつけたようなわざとらしい説教や、子供のことを守ってやるふりをする大人の偽善が気に入らなかった。形式的な謝罪で解決されて「良い子」の範疇に分類され、それの繰り返しをもって「成長」と呼ばれるような、そんな奇妙な社会に迎合したくなかったし、仲間外れにされても上等だった。
中学3年生のときにクラスの中で虐められている女子がいて、ぼくはひとりだけそれには加担しなかった。クラス全員で彼女を虐めているのにぼくは彼女を守ろうとしたわけでもなかった。ただ何もしなかった。高校に進学したすぐあとくらいに、その女子生徒は交通事故に遭って亡くなったという話を聞いた。自転車と自転車の衝突で、運の悪いことに頭を打ったらしかった。当時のクラスメイト全員がそれぞれに進学した高校から葬式に参加したが、ぼくはひとりだけ行かなかった。分水の寮でポチの散歩でもしていたのだろう。あれだけ激しく大勢で一人の人間を虐めていたくせに、急に仲間の死を悼むクラスメイトに変貌し、葬式に参加できてしまうメンタリティが理解できなかった。そしてその一事をもって彼女の母親から「娘を大切にしてくれる友達思いの子供たち」といった評価をいかなる訂正もなく受け止めてしまえることに驚いた。そんな仲間には加わりたくなかったので、「人でなし」と言われようが「冷たい」と言われようが、そういう人たちの列には加わらなかった。たぶん、大河津分水の土手をポチと歩いていたのだろう。
勧修寺の電話ボックスをでて寮の部屋に戻り、サントリーモルツを何本もあけた。親殺しの殺人者になった後の人生を考えはじめていた。ぼくは不貞腐れ、投げやりになり、やさぐれていた。しかし他の人間と同じように、この環境から逃げ出すことはなかった。それでは気がすまないし、心が晴れないからだ。そのくせ部屋には高価なミニコンポが音楽を鳴らしていて、2年間の分割払いで支払いをはじめたばかりだった。なぜならそういったものの購入によって分割支払いを完了させる責任が生まれ、その責任が今の環境から逃げ出そうとする自分の心を引き留めてくれる役に立つと信じたからだ。何があろうとぼくは逃げ出さないという強い気持ちと、早く逃げ出そうという弱い気持ちが激しく葛藤した。Sony Digital Drive Libertyのグラフィックイコライザーで踊る緑と赤の光の動きを眺めていた。明日になれば、10年から1日減るだろうか。