まっすぐな屈折16


真夜中の駅のホームの風景にいた。最終電車が行ってしまい、朝の始発までの時間のようでもある。でも朝になれば始発が来るといったそんな気配は感じられない。むしろその駅は何年か前に役目を終え、すでに閉鎖されたホームのようにも見える。もし明るい光の中であれば、朽ち果てた柵や壊れたベンチや雑草に覆われた線路が見えたかも知れない。真っ暗闇の中で一つだけついた灯りの下で、ボストンバッグを持って電車が来るのを待っていた。冬なのか夏なのか、それも定かではない。そこがどこなのかも判然としない。ひとつだけ確かなことは、それが旅立ちの場面であるということだけだ。夜の静寂に耳を澄ますけれど、誰の声も聞こえず、人の気配が感じられない。見送る人のない旅立ちであり、誰からも惜別も歓迎もない出発である。どこに向かうのかも分からないが、行った先が歓迎してくれることもない。向かい行く先は異国だが、生まれ故郷も異国に変わった。新しい街で輝かしい何かを見つけても、きっと誰からも褒められない。ルシフェリンが酵素と合成されて発生する弱々しい光のように、これを見出す人もいない。思い出されることもなく、懐かしまれることもなく、立ち止まって振り返る人もいない。小さな水銀灯の灯りの下で、ボストンバッグをもって旅立ちのときを待っていた。


三菱鉛筆のhi-uni85本目を使い始めたところで、受験勉強はひとまず終わった。84本の鉛筆を消費したが、それが多かったというべきか少なかったというべきか、妥当な評価はできなかった。何のために数えたのかもよく分からない。それならプールで泳いだ距離の累計を数えた方が良かったかもしれない。結局2年かけても上智大学には合格できず、1年で文学部英米文学科の一次試験に合格したが二次試験の面接で不合格となり、2年目は一次試験にさえ合格できなかった。そのかわり早稲田大学と慶應義塾大学には5学部に合格し、法学部(早)・商学部(早慶)・教育学部(早)・文学部(慶)のなかから文学部に行こうと決めた。

親戚からお祝いがさまざま送られてきたが、母の妹(二人のうち上の妹)のお祝いに関しては、そのまま郵便局に行って速達で送り返した。お祝いを送った方からすると、速達で送り返されるというのはかなりの衝撃だったかも知れない。どうしてそんなことをしたかというと、それより数か月前のある日家に来た叔母から「お前なんか大学に受からないし、たとえ受かってもどこの会社にも就職できない」と言われたとこに腹を立てたからだ。実に妥当な評価ではあるものの、だから人生を諦めろと言われる筋合いはない。死ぬほど苦労してやっと歩きはじめた自分の人生を無駄だと決めつけられるのが不愉快だった。叔母は親戚の中では最も勉強のできる娘と息子がいることが自慢だった。自分の子供がどれだけ努力してきたか、その結果どのような成果を上げたかということを間近で見てきた。それに比べると、姉(母)の息子は昔から勉強が出来ず、頭の回転が鈍く、職人の仕事を10年やって帰ってきたかと思ったら受験勉強などといって、毎日プールに泳ぎに行く。趣味のように英会話教室に通い、ミュージカルを観に行くといってニューヨークまで一人旅行をしているような放蕩ものだ。その日も、家電量販店から買ってきた新しいビデオデッキのAVケーブルをテレビとミニコンポに接続しているところだった。いい年をして働きもせず、夢みたいなことを言っている人間に人生の厳しさを教えてあげようとして最近の模擬試験の結果を見せてみろといったところ、信じられない大学名と信じられない合格判定が記されていた。そんなはずはない、と思って混乱し、すっかり逆上した。

ぼくは本来親戚の中では出来損ないの役割を担っており、いつも惚けたようなことを言って笑いの対象となっていた。馬鹿にされて笑われて、不出来であることを揶揄された。でもそういう振舞によって周囲が笑ってくれることに満足し、もっと喜んでもらいたいと思った。知っているのに知らないふりをし、分かっているのに分からないふりをし、気が付いているのに気が付かないふりをした。わざと間違えわざと覚えていないことにして阿呆のように振舞った。ぼくは自ら「馬鹿にして良い相手」であるという看板を掲げ、そういう役割を進んで引き受けてきたところがある。

でも京都での歳月は、そんな性質を変化させた。誰かの傘の下に身を寄せて暮らしているという立場ではなくなった。周囲の大人たちに媚びることも諂うことも必要ない。生まれ育った町も地域社会との関係性も、家も家族さえ頼らずに生きていく覚悟ができたとき、何を失っても構わないというスタンスになった。そもそも京都行を推進した親戚たちは口々に「お前にとってそれがいちばん良い」とぼくの背中を押して、10年戻って来られない旅路のレールに乗せた。今度はやりたいようにやってもその先は行き止まりだという意味のことを言って、じゃあどうしろというのか。周囲の大人に阿(おもね)っていると破滅する。ぼくは争いを起こすことを躊躇わないし平和主義でもなくなった。結果、親しかった人であるほどその変化を見誤った。ぼくは気安く馬鹿にできる相手から注意して話さなければならない相手に変わった。気に入らない他者を全員捨て、地域社会と縁を切り、完全孤立しても構わないという覚悟ができたからだった。

合格祝いが速達で返却された叔母は驚愕し、何故ぼくが怒っているのかその時はじめて知ったという感じだった。次の日の朝、夫とともに謝罪に来たが、ぼくは誰も許さなかった。そうした話はたちまち広まり、ぼくは一定の距離をとるべき相手になり、軽口をたたいてよい相手ではなくなった。言葉には注意しなければならず、できれば回避した方が良い相手になった。そんなわけで、ぼくの地元はぼくにとって親しくもない場所になり、異国のようになった。

ぼくとしては早慶8学部すべて合格するつもりだったのに、3学部受からなかったので、難しいものだなと思った。池袋のホテルに10日間滞在して毎日ゲームセンターに通って「DEAD OR ALIVE2」をやりながら、8日間連続で試験を受けた。青山学院大学文学部英米文学科の合格通知がまず家に届き、それから約1週間毎日試験結果が到着した。日本文理高校は創設以来、早慶への合格者をはじめて出したということで、講演依頼まで来たが断った。でもぼくは家族も親戚も知り合いも誰もこの結果を喜んでいないということを知っていた。それまで150年続いた家業は途絶え、人口流出の一端を担い、育ててくれた町への貢献もない。伝統を担うでもなく経済貢献するでもなく子供を生み出すでもない。ぼくは故郷を捨てて東京に行くのであり、家業の6代目を継承せずに別の何かをやろうとしている。この受験結果は田舎の中では立派な成果と云えなくもなかったが、ぼくは誰とでも喧嘩するような人間だし、「みんなと仲良く」といったことが期待できない人間だった。

一般的に相手の利益になったり相手の思い通りに動いたりする優秀な人間は歓迎されるのだが、相手の不利益になったり思い通りに動かなかったりする優秀な人間は歓迎されない。コントロールできないだけでなく、自分の資産や権威、立場などが剥奪される恐れのあるような場合、その優秀な人間は最大限注意すべき警戒監視対象となる。「頭が良いこと」や「仕事ができること」は一般的には歓迎されるものだが、それによって自分の立場が貶められるとすれば、どうやってその人間の力を削ぐか、評価を下げるか、のような非生産的な手段を対応策として考えなければならなくなる。それはたいへん愚かなことではあるが、馬鹿にしていた立場から馬鹿にされる立場への転換は、多くの人にとって耐えがたいものなのだろう。


結局この2年間は、趣味に没頭したような期間だった。受験勉強は道楽でしかない。ある程度年齢がいってから働かずに受験勉強が出来るというのはたいへん恵まれたことであり、きわめて贅沢な遊びである。ぼくはAEON(英会話教室)に通って、メトロポリタンミュージアムの横の家で育ったという女性講師のプライベートレッスンを受けていた。その内容は英語で書いた交換日記だったが、交換日記といっても内容的にはぼくの書いた小説やエッセイを読ませて感想をいただくといったものだった。この時期のぼくは何か散文や小説を書きたくて仕方がなかったのであり、Z会の通信欄には収まり切れなくなっていた。英会話教室は英作文の練習場所といえなくもなかったが、たんに文章を発表する場所という役割だった。

ぼくの周囲には合格した5学部の中で、どうして早稲田大学法学部に行かないのか疑問だという人もいたが、法律に興味が持てなかったし今さら就職のことを考える立場でもなかった。興味がないなら受けなければ良いのだが、合格したうえで辞退するところに受験勉強の道楽たるゲームらしさがあった。とくに受験勉強の2年目については国語(とくに現代文)に力を入れたのだが、それは合格しても行くつもりもなかった早稲田大学の現代文対策だった。早稲田は国語が難しい。とくに法学部の国語が難しい。たぶん今もそうだろう。ここに受かるためにはよほど国語が出来なければならなかった。

行くつもりのない学部の国語対策を熱心にやっているところが道楽たる所以であるが、ここで鍛えた国語力がその後の仕事にきわめて重要な影響を及ぼすことになることに、当時は気が付いていなかった。叔母さんの指摘は正しく、どこの学部に行ったところでまともな就職は出来るはずもなく、大学を卒業したら清掃員にでもなろうかなと真剣に考えていた。そうであれば、もっと本が読めるようになった方が良いといった程度の判断で、文学部に進むことにした。

入学金と授業料を納付して、神奈川県の大学の近くに家を探し、内見もせずに契約した。川崎市役所に転入届を出し、家電量販店で家電を購入し、家具を搬入し生活の準備を行った。1985年の16歳の頃から一人暮らしをしているので、家族といるより落ち着いた。入学式は日吉記念館で行われ、ぼくの入った年から文学部は人文社会学科のみの構成に変更された。それまで文学部英米文学科と呼ばれていたものは、文学部人文社会学科英米文学専攻という形になった。社会学×歴史、文学×哲学、文化研究×言語のように複数分野を横断的に勉強しやすくするためということと、入学試験の合格者(入学許可)数や定員管理に役立つからだろう。

住民票など書類を提出し、学籍情報を登録して、学生証を受け取った。健康診断、各種ガイダンスでカリキュラムや履修方法などの説明を受けた。なにしろ文章を書きたかったのでそういうサークルを探し、慶應ペンクラブを活動拠点とした。文章作成のためにNECの新型VALUESTAR NXを購入し、Microsoft Officeを使うようになった。語学のクラス分けが行われ、一般教養科目で何を履修するかを選び、生協で教科書を買った。新宿南口の紀伊国屋(今はない)の洋書コーナーに行かなければ売ってないような本もテキストになったりする。調子に乗ってインテンシブ英語のような上級者向け(もしくは意識高い系)クラスも履修した。富士銀行(のちのみずほ銀行)に口座を作り、奨学融資制度を使って学費を借り、国民年金保険料の学生納付特例制度を利用した。当時誰もが持っていた折り畳み式携帯電話(N502i)を持ち、渋谷の駅で電話をかけながら歩き、今自分がいる場所を説明して、待ち合わせの友達と合流するという大学生っぽいことをやってみた。

それでも、いつも夢に見るのは暗闇のホームにひとり佇む出発の場面だった。誰も歓迎しない方向に向かっているという意識が潜在的にあった。キャンパスは若い人ばかりで華々しく、活気もあり、希望もあり、自信もあった。東大に落ちたことを引きずっている人もいなくもなかったが、とはいえ将来の活躍はかなりの確率で約束されているようなものだった。ぼくの場合はそうではなかったので、活躍の場所は得られないと思った。早稲田大学の応援部とチアリーダーが慶應の中庭で応援を繰り広げる横をすり抜けながら、ここを卒業しても何の仕事にも就くことができないような未来を想像して、暗い気持ちになった。京都での10年間はいったいどのような形で自分の人生に寄与するのか、まったく想像できなかった。小さな水銀灯の灯りの下で、出発の時を待っている。誰もいない駅のホームで、惜別の言葉も歓迎の予感もない。誰からも惜しまれず、心配もされない。これから向かう先がどのような未来であるか、それを承知の上で、そこに向かう電車に乗るために、ぼくはひとりでホームに佇んでいる。


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