まっすぐな屈折14


新潟県燕市は、商業的には宮町や仲町がその中心であり、地元では「まち」と呼ばれていた。「まちに行く」というのは、宮町や仲町に行くということであり、かつては人通りも多かった。宮町には車道と歩道を覆う屋根が取り付けられ、人々はそれを和製英語でオーバーアーケードと呼んだ。仲町は車道には屋根はなく、歩道の上だけのアーケードとなった。雨や雪が降っていても傘を差さずに買い物ができるというのは昭和時代の一つの理想だったのかも知れない。1970年代末にかけて、このアーケードは整備され、仲町は街路灯の形状からすずらん通りと呼称されていた。この商店街には銀行・スーパー・パン屋・理髪店・喫茶店・本屋・銭湯・文房具屋・金物屋・花屋・寝具店・菓子店・カメラ屋・家電販売店・玩具店・楽器店から神社とお寺にホテルまで一通りのものはそろっており、その中の仏壇・仏具店の一人息子として、ぼくは生まれた。幼稚園生くらいのときに実家の二階でタバコを吸ってみたところ、隣の電報電話局(日本電信電話公社の局舎)の職員から窓越しに注意されたことがあり、それ以来ぼくはタバコを吸わないようになった。

春と夏には祭りがあり、車は通行止めとなって屋台が並び、大勢の人で賑わった。春は萬燈が出て、夏は民謡流しがあり、花火が上がった。この商店街の中に実家の住居と店舗があったので、さまざまな親戚と関係者が遊びにきて、いったん休憩して行くにはちょうどいいロケーションだった。親戚同士がそこで出会って挨拶したり情報交換したりするような、ちょっとした社交の場のようでもあった。父はせっせと床の間に骨董品を並べたり掛け軸をかけ替えたりしたし、母はまったくお金にならない世間話に明け暮れ、大量のお茶を消費することになった。大部分の話題の中心は「どこの誰がどうした」といった噂話であり、これらの話には本人が不在で、事実かどうか不確かで、語り手の評価が付いて回るという3点が共通していた。

上越新幹線の駅として燕三条駅が開業したのは1982年のことで、ぼくが中学2年生になった頃だった。部活は軟式テニス部に在籍していて、上手な人の試合を見て、毎日3km走ったり歩いたりしているだけの活動だった。顧問の先生は一部のできる生徒にだけ熱心で、その他大勢には興味がなかった。このころは井土巻の方に新幹線の駅ができたという話題はあったものの、周囲には何もなく夜になれば真っ暗で、人の流れが変わるということはなかった。新幹線が止まるからといって急に町が立派になったということもなく、利便性が向上したという感じでもなかった。ところが1990年代半ばになって、駅周辺の開発が一気に進み、「新潟県央」などとまるで新潟県の中央を名乗るかのような呼称が与えられていて驚いた。

この間ぼくは不在だったので、地元がどのように変化していったのか分からないといえば分からない。年に1度帰郷しても外を歩き回るわけでもないので、少しずつ移ろってゆく漸進的な町の変化に立ち会っていない。ぼくが比べることができるのは離散的な10年間の前と後であり、この町の重心が一気に移動したという印象を受けた。昔からある「まち」の方は、人通りが著しく減少し、シャッターの閉まったままの店舗が増え、宮町も仲町も閑散とした街並みとなった。年末年始は店が閉まっているのが当たり前だったのだが、祝日でもない平日の昼間の風景は、京都から帰ってはじめて見たのであり、驚くほど変貌していた。建物のあった場所が駐車場になっていたり、見慣れた店がなくなっていたり、10年前とは別の場所のようだった。地元の人たちは依然として「まち」と呼んでいたが、プレス金型や金物製造の零細工場の集まる地域の中にある昔からある商店街は朽ち果て、活気がなくて人もいなくて賑わいのない場所に変わった。一方で、たった2.5kmほど先にある新幹線の駅の方には大型の商業施設が集積し、都会で見かけるような外食チェーン店が並び、7つのスクリーンからなるシネマコンプレックスが営業していることがなんだか不思議だった。


父は実家の店舗側をそのままとし、住宅側を建て替え、けして景気が良いとはいえない環境の中でその住宅ローンの繰り上げ返済をしようと必死に働いていたが、京都から帰ったぼくに「仕事を手伝え」とは一度も言わなかった。父が必死だったのはぼくにローンの返済を残したくなかったからだろう。しかしぼくはそんな父の姿を見て、気の毒だとか可哀そうだとか1ミリも思わなかった。父は石原裕次郎の「俺は待ってるぜ」(1957年の同名の映画主題歌)を居酒屋で1度だけ歌ったことがあるが、面と向かってぼくに仕事を手伝うことを待っているということを言うことはなかった。父は、さまざまな経緯がありながら、そうはいうものの結局息子は自分の跡を継いでくれるに違いないといったかすかな希望を抱き続け、期待をけして口にせず、ただじっと待つしかない人生だった。あまりに愚鈍であまりにのろまで、あまりにばかみたいだった。1日1日が経過するたびに、息子は父の仕事を本当に手伝わないという事実が少しずつ、しかし確実に積み重なっていった。母は比較的現実主義者だったので、京都の時間と苦労がすべて無駄になるという現実を受け入れていったが、父はどれだけ時間がたっても信じて待ち続けていた。息子が京都に行っている間は京都から帰ってきたら自分の仕事を手伝うだろう、大学受験の勉強をはじめればいつかそれを諦めて手伝うときがくるだろう、大学進学で東京に行けばいつか卒業したら地元に戻ってきて手伝うだろう、東京の会社に就職すればいつかその仕事を諦めて戻ってきて手伝うだろう・・・。母に何度も諭されて、息子はもう戻ってこないし、手伝いもしないと教えられても、いつまでたっても信じて待ち続けた。最後の最後まで、息子が戻ってくることを待ち続けた。そういう人生だった。ぼくはそれを知らなかったわけではない。気が付かなかったわけでもない。ただ小さくなっていくその後ろ姿があまりに哀れで、惨めで、ばかみたいだった。

親戚はぼくの今後に興味と関心があるようだったが、表面的にはそれは押し殺し、「かっちゃんは毎日何をしているの?」といった類の質問が母に殺到した。10年前に本人の意向を無視して京都行を推進したことや、とにかく親の跡を継げと熱心に説得した責任など誰も取ろうとしなかった。10年もかけて京都で身に着けた技術を一切使わないでどうするつもりなのか、といった疑問はローカルな地域社会の世間話として話し合われるには格好の材料だった。29歳から受験勉強ということで、「がんばってね」などと社交辞令として前向きな言葉を並べて帰って行ったが、不合格になればこの話は尚一層面白い話題になる、と思われているのは明らかだった。どこの大学を受けるのか、といった質問を母は何とかはぐらかそうとしていたが、当の本人が馬鹿みたいに「上智、上智!」などと言っていたので、これは面白いと思われたに違いない。どちらかといえば、そんな計画がうまくいかないことの方が、家族にとっても好都合だし、噂話が好きな近隣住人にとっても歓迎された。そういうわけで、ぼくが向かおうとしている方向の先にある、ささやかな幸福にたどり着くことを心から喜んでくれる人は、誰もいなかったのである。

でもそれはいい。自分の幸福を期待する他人が周囲にいることが当たり前だと考えるのは、甘えだ。誰も喜んでくれない、誰も相手にしてくれない、誰からも認められない、そういうのが当たり前であって、むしろ非難と否定の嵐の中でもささやかな人生を歩き続けることがぼくにとっての日常だ。そうしたわけで、ぼくは10年ぶりに実家に戻ったのだが、町の隅々を散歩して懐かしさを感じたり、少年時代の思い出に浸ったり、ノスタルジックな感傷に耽るわけでもなく、すぐ近くに菩提寺があるのに先祖の墓参りにいく訳でもなく、家の仏壇に手を合わせることもなく、ただ机に向かって考え続けた。新しい漆が手につかないので、皮膚の新陳代謝によって10年間落ちたことのない手の汚れが少しずつきれいになっていくのが不思議だった。


当時はインターネットもなかったので、情報が欲しければ本屋に行くしかなかった。地元でいちばん大きな本屋は新潟市の紀伊国屋だったので、車に乗ってわざと遠回りをして何度も本を買いに行った。燕市から新潟市に行くには、国道116号線か8号線、または北陸自動車道を使うのが一般的だったが、ぼくは好んで国道402号線を走った。402号線というのは日本海の海岸線に沿って続くシーサイドラインであり、冬場は通行止めになることもあった。日本海側に連なる山々の間隙を抜けて、このシーサイドラインに出てそれを北上する。左側に真冬の日本海を眺めながら、右側には雪に覆われた山がそびえる。どこまでも信号のない道を走るのが好きだった。ちょっとした駐車スペースに車を止めて、厳しい寒さの中で真冬の日本海を眺めた。激しく岩に打ち砕かれた波の飛沫を見下ろしながら、雪かみぞれの降る曇天の空の下、寒々とした風景の中で冬の空気を深く吸った。往復3時間もかけて紀伊国屋まで行っても、結局地元の商店街にある本屋さんにも売っているような本しか買わないのかも知れないが、この風景を見ることが目的のようなところもあった。

結局ぼくは予備校には行かないことに決めた。この頃は他人からどう思われるかについて無関心ということもあり、29歳で予備校に行くのが憚られるといった気持ちはなかったが、それよりも自分のお金を使って予備校に行くのがもったいないと思った。でもそれよりももっと本質的な問題があり、予備校はあまり役に立たないと判断した。ただし、全国的な模擬試験は受けた方がよく、そのために代々木ゼミナール新潟校を使った。本質的な問題というのは、成績が上がるかどうかということであり、1年で上智大学に合格できる水準に持っていけるかどうかということであった。なにしろスタートラインが後方過ぎて、目的地は遥か彼方に見えた。この受験勉強についてぼくの考えたことは、まず「勉強とは何か」という問題だった。当時は、勉強論や勉強方法、合格体験記などの書籍がいろいろあって、「〇〇という本をやる」とか「〇〇が終わったら△△をやる」というふうに、使うべき参考書や問題集とその順番などが語られることが多かったのだが、その中にある「やる」とは何かが分からなかった。書籍なのでたんに「本を読む」という意味なのか。でもそうではない気がする。

こういう問題を当時のぼくはずっと考えていて、そして以下の結論に至った。「やる」とは「努力する」ということであり、その努力の対象が3つある。一つ目は「理解しようとする」努力であり、二つ目は「記憶しようとする」努力、三つ目は「解決しようとする」努力である。解決しようとする努力というのは、問題を解こうとすることや思い出そうとする努力を含む。分かろうとする必要があるし、暗記しようとする必要もあるし、回答しようとする必要もある。この3つが「勉強する」ということの意味だな、と思った。

たとえば、机に向かって勉強しているように見えても、理解しようとしているわけでもなく、何かを暗記しようとしているわけでもなく、問題を解こうとしているわけでもないのであれば、それは勉強していることにはならない。この3つのカテゴリのどれにも当てはまらないことをしているのであれば、それは勉強になっていない。1日10時間勉強したといっても、この3つのカテゴリの範疇に収まることだけを厳密に計ったら、極端に短くなる可能性もある。本当の意味で「理解」「記憶」「解決」の努力をどれだけ行うか、ということが問題になるだろう。そう考えると、予備校は「理解する」ところを手助けするだけで、「記憶」と「解決」は自分で行うしかない。予備校の先生が受験生に代わって暗記してくれるわけでもなく、受験生の代わりに試験問題を解いてくれるわけでもない。もちろん塾や予備校は商売なのだから、集客が大事であって、そのためには「理解がなにより重要」という政治スタンスを取らなければならない。だから優秀な講師陣がいることをことさら強調するのだろう。「記憶」のための書籍や「解決」のための書籍、つまり英単語集や問題集などを販売しても、ビジネス的にはたかが知れている。もし塾や予備校が知らなかったことを記憶することや、問題を解こうとすることが重要であり、それは誰も手助けできないから本人が一人で行うより仕方がないということを言ってしまえば、集客が減少するのは目に見えている。

この三つのカテゴリを、一つに偏らず、ぐるぐるドライブできる人が勉強の出来る人なのだろう。まったくの推測ではあるものの、おそらく間違いない。本人が自覚しているかどうかはさておき、いわゆる高偏差値で勉強のできる層は問題演習や単純暗記を馬鹿にしていない。というか「理解こそ重要」を妄信するのはむしろ勉強のできない層だろう。そう考えると、「理解」「記憶」「解決」のための材料は何でもよく、必ずしも予備校に通うことがベストではないという結論になった。

さらに云えば、この3つのカテゴリの中で、どうしても理解できないことはたくさんあるし、どうしても解けない問題も山ほどある。けれど、どうしても記憶できないものはない。時間と労力をかければ、大抵のものはなんでも記憶できてしまう。とすれば、「記憶」は突破口になり得る。なぜなら、この3つのカテゴリはいわく云い難い関係を取り結んでいて、お互いに相互依存関係にあるからだ。つまり「記憶」ができると「理解」や「解決」に影響が及び、分からなかったことが分かるようになったり、解けなかった問題が解けるようになったりする。でも記憶対象は莫大にあり、時間は限られている。そこでぼくが行ったことは、「覚えようとしない」ということだった。矛盾した言い方になってしまうけれど、覚えなければいけないのだが、覚えようとしてはいけない。というのは、どうせ記憶しようとしても記憶できない自分に失望し、落胆して諦めることになるからだ。記憶というのは情報に対する接触頻度によるのであって、一度も出会ったことのない情報に対しては接触頻度のパラメータがゼロであり、たくさん接触している情報はパラメータが著しく高い。DogやCatはこれまでの人生でたくさん接触してきたのだから、きわめてパラメータの高い状態にあり、こうした情報を記憶するのは簡単だし、忘れ難い。ネズミというときMouseはこれまで接触頻度は高かった。パソコンのマウスと言った瞬間に1接触し、ミッキーマウスと聴いた瞬間にも1接触する。でも同じネズミでもRatはmouseほどには接触しない。たまにNHKのアナウンサーが言うかも知れない。テノチティトラン(アステカ帝国の首都)は今まで出会ったこともなく、接触頻度はゼロだろう。このRatやテノチティトランのような接触頻度のパラメータが少ない、またはほぼゼロであるような情報を記憶するのは厄介で、一度覚えたとしても忘れやすい。そうしたわけで、目指すべきは「覚えること」ではなく、「パラメータを上昇させること」なのだった。

ぼくはX68030の電源ケーブルとRGBモニタケーブルを電工ペンチで切断した。京都で購入したSHARPのパソコンX68000とその後継機であるX68030はまともに使う時間もなく、かつてX1でプログラミングをしたころのようにはいかなかった。X68030は本体だけで498,000円もしたのだが、京都にいる間はまともに使うこともなく、新潟に戻っても勉強の邪魔になると判断して自ら使えないようにした。市販の参考書や問題集を買いそろえ、誰ひとり応援する人のいない受験勉強を独学で開始した。


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