まっすぐな屈折13


その日は、よく晴れた日だった。朝起きてすぐにいつものルーティンとは違うことに気が付いた。とりわけ気分が良いわけでもなく、落ち込むわけでもなく、昂揚でも沈鬱でもなかった。何かしらの達成感があったわけではないし、挫折感があったわけでもなかった。心が何かに満たされて充実していたわけではないし、空虚だったわけでもない。ぼくは勝利したのではないし、敗北したのでもない。強いて云えば、ただひたすら事務的な朝だった。ぼくは昔から朝風呂に入るので、その日も朝風呂に入って髭を剃り、ドライヤーで髪の毛を乾かした。ハンガーにかかったままの洗濯物を畳んで、微妙に異なる靴下の左右ペアを探し、歯を磨いて、燃えるゴミを集めた。借りていたビデオテープ数本を律儀に巻き戻してケースにしまい、喜ぶでもなく悲しむでもなく、ただ無表情で淡々と出発の支度にとりかかった。

今まで寝台特急に乗って新潟に帰ったことはあったものの、それはいつも決まって12月30日の夜に京都駅を出発するブルートレインであり、直江津駅に到着するのは大晦日の早朝だった。12月30日以外に帰ったことはこれまで一度もなく、寝台特急以外で帰ったことも一度もなかった。今回は大晦日でもなく、寝台特急に乗るわけでもなかった。というか、これまでといちばん違うところは、もう京都に帰る必要がないことだった。新潟での滞在を「あと4日」などとカウントダウンする必要がない。でもそれについて特段嬉しかったわけでもなく、寂しかったわけでもない。きわめて作業的に、オーディオセットとテレビとビデオデッキとPCのごちゃまぜになったケーブル類とアンテナ線を次々に引っこ抜いていった。

建物の下に車を回し、荷物を4階から階段で一つずつ運んで車に積んだ。SONY 25” KIRARA BASSOとLIBERTY PLACIDO、SHARP X68030、HITACHI MASTACS、そして緩衝材代わりに毛布や衣類を隙間に突っ込んだ。三菱自動車のミニカ・トッポはたちまち過積載のような状態になり、運転席からルームミラーで後方が見えなくなった。まあいいかと思い、部屋に戻り、忘れ物がないか確かめた。単身者用の1KのキッチンにはIHヒーターが取り付けられており、そこで何度もカレーやお好み焼きを作ったことを思い出した。お好み焼きに山芋を入れようとしておろし器にかけたが上手くいかず、なんだかささくれ立ってくるのを不思議に感じたこともあったし、それは山芋ではなくゴボウだったと気が付いたこともあった。米を研ごうとして炊飯器の内釜にフリーズドライのゴールドブレンドを振って研ごうとしたこともあった。

煮物を作るときに灰汁を流しに捨てたといってビンタされ、膝を抱えて部屋の隅で座っていると「楽しくないのか」と言って殴られた。カーテンの長さが床まで届いていないといっても叱られ、ボクシングに興味がないと言ってまた怒られた。甲子園球場で日陰に入ろうとして逆鱗に触れ、殴られたせいで鼻地が床に落ちて床を汚したといってはまた怒鳴られた。両ひざで両肩を抑え込まれて両手で交互に顔を殴打されたときは殺されるかと思った。とにかく何をしても怒られた。一方で大変機嫌よくぼくの名前を歌うように連呼して躁状態のようになっていることもあったし、遠くない将来を想像してぼくの不在を嘆くこともあった。社長は自分のストレスをぼくにぶつけ、上手くいかないことの八つ当たりをしながら、それでいてぼくから尊敬されることを求め、ぼくから許されることを求めた。

最後に2階の職場に入ってみた。棚には梨子地、溜、箔下、立・・・など様々な種類の漆の桶が並び、漆で汚れた床には水まき用のジョウロが二つ、壁には敷板が30枚ほど、テーブルには回転台があり、製品を乗せるための布張りの板に週刊少年ジャンプが乗っている。マンガ雑誌の通常ページは製品を乗せるのにちょうどよく、漆で汚れると別のページを使えばよかった。表紙やカラーページは製品にくっつくのでよろしくない。ぼくの座る椅子、仕事机、常盤、使い込まれたヘラ、空いた桶にぎっしり詰まったキリ、刷毛が固まらないようにつけておく油缶、テレピン油、漆漉し用の和紙、ヘラ太刀、埃除去用の鶏の羽、机も椅子も仕事台も長い年月の漆の蓄積によってもともとの姿は分からないほどになっていた。ぼくは塗り場を後にする前に一礼し、この場所に深々と頭を下げた。

京都を離れる前に、醍醐のビデオ屋に行って7泊8日の旧作数本を返却ボックスに投げ込んだ。京都銀行と京都信用金庫に寄って番号札を持ってしばらく床を眺めて順番を待ち、二つの口座を解約した。別にそのまま残しておいても良かったのだが、なんとなく区切りをつけておきたかった。どちらの口座にもほとんどお金は入っていなかった。財形貯蓄は一定の金額があるはずだが、それは会社が管理していて、ぼくは自由に使うことができない。その後は、新京極に行ってわざわざゲームセンターの開店を待って、「バーチャファイター3」をCPU相手で何度か遊び、喫茶店でサンドイッチを食べ、コーヒーを飲んでみた。クリスマス・イヴ前日の火曜日の午前、新京極と河原町通をつなぐ道路を行き交う人々をぼんやり眺めた。ダッフルコートやピーコートなどの人々に相当数ダウンジャケットが混ざり始めていた。京都を立ち去る日が来ることは夢にまで見た待望の瞬間であったのだが、案外平凡で、思ったほどドラマチックなものでもなかった。頭の中でプロレスの勇ましい入場曲が流れるわけでもなく、映画のワンシーンが思い出されるわけでもなく、はじめてこの街を訪れたときの自分の幻が見えたわけでもなかった。漆で汚れた両手を眺めて、おもむろに「旅立つとするか」とつぶやいた。

下地の職人に頼まれてRoxetteのCDを買ったレコード屋の前を通り過ぎ、三条通りを東に進み、京都東インターから名神高速道路に乗った。カーナビがあったわけではないので、大雑把に福井を目指したが、東に行ったのか西に向かったのか定かではない。途中片側1車線の対面通行もあるような有料道路を走っていたような気がするから、それは舞鶴若狭自動車道だったのかも知れない。だとすれば、それは結構な遠回りをしていたことになる。琵琶湖の西側を北上し、舞鶴のあたりからやっと北陸自動車道を東に向かって走りはじめる。2時間以上も走っているのにまだ京都、というふうに感じたことを記憶している。それから敦賀、福井と途方もなく遠かった。たいへん長時間を走っているのに、たいして進めていないような気がした。だんだんと運転が雑になり、視界が狭く、注意が散漫となった。ふっと気が付くと前の車が停車していることに気が付かず、猛スピードで原形を留めない形状変化を引き起こすような衝突事故を起こした。円形のはずのハンドルが鋭く尖った鋭角の破片になって胸を貫き、すぐ近くで「カンカラカーン」といつか聞き覚えのある音がした。深夜の電話ボックスを出て蹴り飛ばした空き缶の地面を弾み転がる音だった。その衝撃に驚いて目を覚ますと、前方の車と自分の車の間にはまだ1m以上の間隔があり、そして両車両は動いていなかった。そこは聞いたこともない地名のサービスエリアの駐車場だった。軽自動車の狭い車内で仮眠をとりながら、衝突事故を起こした夢を見ていたのだった。冷や汗をかいて缶コーヒーを飲み、また車を運転した。しかし、自分でも気が付かないほど疲弊していて、起きているのか眠っているのかはっきりしないような状態だった。その後何度かパーキングエリアで休憩したが、眠るたびに事故を起こす夢を見た。9時間以上の工程で、あれほど何度も衝突する夢を見ておきながら、現実には一度も事故を起こしていなかったというのが奇跡のように感じられた。たまたまラジオから流れてきた「滑って転んでばんざーい!」という大昔からある新潟アイスリンクのCM曲を聴いて、地元に帰ったことを知った。


家に入ると父と母は待っていた。夜の9時ころだったと思う。母は「帰ってきたの?」と訊いた。馬鹿みたいな質問だと思った。「帰ってきた」と馬鹿みたいに答えた。父は「道は混んでいたか」とどうでもいいようなことを訊いた。ぼくは「ふつう」と答えた。居間には一枚板の衝立があり、山川や虎などが描かれている。昭和初期に製造された精工舎の柱時計は10年前にこの家を出た時と変わらず、ぜんまいを動力源として、大きな銀色の振り子が右に左に振れてかちかちと時を刻んでいた。誰も何も言わなければ、この時計の音がやけに大きく聞こえてきた。父は火鉢の灰の中で炭を転がし、五徳に南部鉄器の鉄瓶をかけて湯を沸かした。釉薬が均一ではなく、色むらやひび模様のある湯呑が三つ並び、そこから三つの湯気が上がった。ぼくは両親を殺してやろうと思ったし、どうしてこんなことになったのか責任を追及するつもりでいたのだが、いざとなるとうまく言葉が出てこなかった。長い時間をかけて蓄積し、この時のために一気に放出しようと準備してきた怒りと悲しみを怒涛の如く浴びせようとするのだが、それを上回る得体の知れない感情に圧倒され、口からはまともな言葉が発声されず、ただ発作でもおこしたかのようにむせ返っているだけになった。

言葉にしたいのに言葉にならない。それが悔しくて、それが残念で、なぜか大粒の涙がいくつも落ちた。「親は子供の幸福を願うものではないのか!」と怒鳴りたかったが、それも言葉にはならず、「お、おや、・・・おや、・・・」とまともな言葉が出てこなかった。何かがこみ上げてきて云いたかったことが何も言えなかった。隣の部屋には商品ではない実家の仏壇があり、毎日その仏壇に手を合わせてぼくの無事を願っている親の姿があったことを知らないわけではなかった。何の力もなく、ただ右往左往しているだけで、救済のための具体的な行動を起こすわけでもなく、息子が自分で成長し、自分で困難を克服し、自分の力でそこを突破して戻ってくるのをただ火箸で炭をひっくり返しながら待っているしかない無能な両親ではあったが、それでもぼくの無事を願わない日がなかったことを知らないわけではなかった。「帰ってきたから、いいじゃないか」と言って、父は泣いた。母もそれに同意して泣いた。二人はぼくが帰ってきたから良かったという安堵で一致したが、ぼくは一致していない。帰ったから良かったわけではない。この10年間どうしてくれるのか。でもぼくのその意見は言葉にならず、それが悔しくて涙になった。でももしかすると、ぼくもその悔しさを安堵が圧倒したのかも知れない。精工舎のぜんまい時計は相変わらず時を刻み、厚手の湯呑から三つの湯気が上がっていた。

次の日、京都とはまた違った種類の寒さを感じながら目が覚めた。想像通り、社長は昨日狂ったように怒鳴り散らし、父と母に長時間の電話で説教したらしかった。ぼくの財形貯蓄はお礼として差し上げますというのがまともな人間の言葉だろうというようなことを親に言ったらしかった。それを聞いてぼくはすぐに会社に電話をかけ、社長に怒声を浴びせた。このとき初めて社長を「おい、こら」と呼び、「舐めた真似すると殺しに行くぞ」と怒鳴って電話を切った。結局、自分より弱い人間にしか偉そうにできない哀れな人間だった。そのすぐ後に社長の奥さんから電話があり、「どこに振り込めばいいか」と連絡があった。その日のうちに最寄りの銀行の口座に980万円が振り込まれていることを確認して、それ以降、京都との関わりは一切なくなった。父はぼくの振舞に怯え、これが自分の息子なのかという目でぼくを見た。母は怯える必要はないというようなことを父に言ったが、家族内での関係性は以前のようなものではなくなっていることに各々気がついていた。ぼくは自分の部屋に京都から持ち帰った荷物を運び、配線し、連携と起動を確認した。財形で貯めたお金はHONDA NSXを買うか一瞬迷ったが、大学に行くために使おうと思った。父の仕事は一切手伝わず、一貫した姿を見せることが親への復讐だった。

ぼくが退職したことはすぐに業界に知れ渡ったらしく、別の会社からお誘いの電話がかかってきたが、「上智大学に行くので、仕事はしない」と断った。きっと馬鹿みたいに聞こえたに違いないが、当時のぼくは馬鹿みたいだったのだから仕方がない。親戚もそれとなく様子を伺いに来て、どんな状態なのか、どうするのか興味があるようだった。ぼくは今後のことを訊かれるたびに、「上智大学に行く」と答えた。偏差値38の高校を卒業して、10年間職人だった人間が、世迷言を云っていると噂になったに違いない。両親はそのたびに釈明に追われ、息子の今後については濁したり、ぼかしたり、苦労しているようだった。世の中には自分がどう思われるかとかどう見られているかをたいへん気にする人がいることは知っている。でも、ぼくはまったく気にならなかった。さて、どうやって上智大学に入ればよいのか、について考えはじめた。漆で汚れた両の手を眺めながら、勉強とは何か、について考えた。1997年のクリスマスから年末にかけてのことだった。


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