中学生・高校生くらいの頃を振り返ると、お金を稼ぐということについて、真剣に考えたことはなかった。欲しいものがあると親にねだる、というだけで、買ってもらえる時もあるし、買ってもらえない時もあった。
お金を稼ぐということについて熱心に考えることが、そもそもあまり歓迎されない、といった雰囲気が1970年代や80年代にはあり、その空気を吸いながら成長してきた。今は少し違うのかも知れないが、当時の学校の先生は「お金を稼ぐ」ということについて、誰も何も教えてくれなかった。教えるのが嫌だったのかも知れないし、教えることができなかったのかも知れない。
お金の話で記憶に残っているのは、ロバート・キヨサキ『金持ち父さん貧乏父さん』だが、これは2000年代に入ってからだ。
まだインターネットがなく、テレビの寡占状態下、例えば『暴れん坊将軍』『必殺仕事人』『水戸黄門』などの時代劇では、ものづくりを行う職人は善人として、お金儲けを画策する商人は悪人として描かれることが多く、金儲けを追求すると必ず後で成敗され、まじめにこつこつものづくりを行っている平民には幸せが訪れる。
もしかしてもしかすると、今の日本もその状況は変わっていないのかも知れない。人間が利益を追求するのは当然のことなのに、それを露骨に表に出さない。自分自身が生きていくためにも、家族を守るためにも、「入ってくるお金」を増やすことは、きわめて重要なことだ。
たとえば新しいビジネスの企画を考えて、それを説明したりすると、それについて真剣に考えることもなく、強い拒否反応を示して頭から否定する人も多い。「それはできない」「無理だ」「あれがダメ、これがダメ」でもそれを言う人は、ぼくよりも若くて、これから先ぼくよりも長い期間働き続け、収入を継続して得ていく必要があるし、できれば今より高い給料がもらえるようになりたいはずだ。それなのに「入ってくるお金」を増やす方法について議論もしてはいけない、という態度に閉口する。
なにも新しいことはせず、現状維持で、徐々に「入ってくるお金」が減っていく未来が望ましいのだろうか。
一方で、「お金の使い道」論は熱心に議論される。次にもらう給与をどう分配するか、可処分所得で何を買うか。
住宅ローンと光熱費、保険、投資、車の維持費、食費、生活費、云々…。固定費は仕方ないとして、所得を変動費にどう分配するかという問題。
国のレベルであったとしても、文部科学省や厚生労働省、国土交通省…など各省庁から上がった「どれくらいお金が必要か」という申請を財務省経由で内閣が検討して予算作成、国会で議論される。「誰がいくらお金を必要とするか」という議論はいつも白熱し、お金をどのように分配するのが妥当かという議論の末に予算が成立する。
このことは「出て行くお金」についての議論であり、「入ってくるお金」の議論ではない。入ってくるお金は、税収の見込みと、国債(借金)をどれくらい発行するか、という程度の話で、今後の日本はどうやって収入を増やしていくか、という話はあまり聞こえてこない。
昔、橋本徹が大阪府知事だったころ、大阪府の収入を増やすカジノ構想が、府議会で反対された。ギャンブル依存や倫理的な問題もなくはなかったが「カジノなど一時的な収入源に過ぎない」と批判した反対派の府議は、じゃあどんな「入ってくるお金」を増やす方法を提示できたのだろう。
個人のレベルにおいても、給与の使い道(仕分け)については熱心に考えるものの、給与そのものをどうやって増やしていくべきか、ということについては話を聞かない。一般的に、仕事で成果を上げれば給与は増えるが、仕事で成果を上げるにはどうすればいいのかを真剣に考えている人を見たことがない。とりあえず今の給与を来月ももらうとして、その中から食費と生活費にいくら払って、靴を買うか鞄を買うか…のような分配を考えているだけなのではないか。
個人においても法人においても国のレベルにおいても、とにかく、使い道の話ばかりで、「入ってくるお金」をどうやって増やすか、については静寂という、日本って、何かの病気にでもかかっているの?と云いたくなる。実際、『暴れん坊将軍』その他に観られるように、お金儲けを考える人間は悪い奴であるという、目に見えない奇妙なイデオロギーがこの国全体を覆っていて、我々はそれに支配されているのではないか。
大学3年生くらいから就職活動は始まり、企業の側も採用活動を一生懸命に行うのだが、学生側と企業側の最大のミスマッチを端的に云ってしまえば、「稼げる人材」を求める企業に対して、学生は「稼ぎたくない」のである。営業を求める企業に対して、営業になりたくない学生の構図。
企業の中にいるたいていの社員は現状維持派で、面倒な仕事を増やしたくない、厄介なことに巻き込まれたくない、新しいビジネスなど負荷のかかることには大反対。でも企業の経営層はもちろん「入ってくるお金」を増やすことに執着している。それは当たり前だし健全だ。だから企業側は既存ビジネスの拡大および新規ビジネスの立上げ、結果として受注や売上実績の上昇を目論む。その数字をあげられる人材が優秀なのであり、新卒採用にも中途採用にもそれを期待する。
学生の側は、自らが営業として数字を挙げるというより、間接部門の希望者が多く、バックオフィスかミドルオフィスくらいで「サポートするのが向いていると思う」などと言う。中途採用においても、企画をしたいといって入ってきた人が行ったことは、社内に音楽を流してみただけだった。プロフィットセンターで自らが「入ってくるお金を増やす」ということは、とにかく回避したい。
2004年にIBMがパソコン部門を中国の企業(Lenovo)に売却するというニュースを聞いたときに驚いた。ぼくは、8ビットのころからパソコンに熱心だったので、ThinkPadという有名なブランドをなぜ売るのか意味が分からなかった。
しかし、後になって振り返ってみると、すでにパソコンは儲からない事業であり、「入ってくるお金」を増やすのに向かない、との判断は妥当だった。それよりもソフトウエアやサービスを成長させて主力の収入源にするべきという見切りだったのだろう。
2000年代に入ってインターネットが急拡大していく世の中で、お金を儲けるために必要なのはハードウエアではなくソフトウエアである、という認識が世界的には主な潮流となった。AppleがiPhoneを開発していたのは2000年代初期からで、スティーブ・ジョブスの有名なプレゼンテーションによって発表されたのが2007年である。
手で触れることのできるモノに執着したのはぼくだけではなかったはずだが、ここがひとつのターニングポイントになった。
「手で触れることのできるモノ」では、「入ってくるお金を増やす」のに向かない時代になってきていたのに、この時代の変化に鈍感だった。
ソフトウエアなどの手で触れることのできないものの方が、「お金を増やす」ポテンシャルを秘めていたのだが、残念なことに日本では、「お金を増やす」ことを一生懸命に行うのはみっともないことであり、あまり良い顔をされないことであり、歓迎されないのだ。
横浜ベイスターズが売却されたのは2011年で、スマートフォン向けゲームなど「手で触れることのできないソフトウエア」を作っていたDeNAが買収先となったことに昔のプロ野球OBなどからはあまり良い顔はされなかった。
日立とか東芝のような昔からあるものづくりの会社が買収するのが望ましい、という意見をはっきり覚えている。
結局、そういうわけで、日本は「ものづくり」に執着し、こだわり続けた。
2007年にあったNHKのドラマ『ハゲタカ』の中で、「新興IT企業は社内に神棚を置きたがる、自らが虚業であることを認識しているからだ」という科白に現れているように、日本人は形のないもの、手で触れることのできないものを警戒し、信用せず、尊重もしなかった。
その結果、いつまでもものづくりに信仰し、大学卒業した息子や娘が伝統的なメーカーに就職したといっては親として安心となり、手応えのあるモノからの離脱が遅れた。
ソフトウエアやサービスをビジネスにする会社が世界を席巻していても、それは「虚業」であると云えるのだろうか。そして、不健全とまではいえない適度なインフレの中で物価高に困ったという話ばかりして、「入ってくるお金」を増やすことについて未だに意識が向かない。映画『紳士同盟』の中の薬師丸ひろ子の科白を引用しよう。
「地球の方ですか?」