「言われたことしかできない人」の正体


道路に描かれている二つ並んだひし形の道路標識は、前方に横断歩道(または自転車横断帯)があることを示している。

ひし形は横断歩道を意味しているので、この二つの関係は、

意味するもの(シニフィエ):ひし形

意味されるもの(シニフィアン):横断歩道

ということで、ひし形は横断歩道を表す記号(インデックス)であるともいえるし、ひし形は横断歩道の比喩である(メトニミー)ともいえる。

いずれにしても、ひし形と横断歩道の間には空間的な隣接関係があり、一つ目のひし形から50m先、二つ目のひし形から30m先に横断歩道がある。

我々は車を運転していてひし形を認めると、その隣接関係にある横断歩道が次に来ることを想定し、準備する。あまり自覚的でないかも知れないが、たぶん若干スピードを落としている。


このように「Aの次にはBがくる」という想定は、「Bの次にはCがくる」「Cの次にはDがくる」と次々に連鎖していき、最終的にAからXを見抜くといった思考になる。

エラリー・クイーンとかアガサ・クリスティとかコナン・ドイルのようなdetective stories、推理小説・ミステリ小説(最初から犯人が分かっているのはサスペンス、分かっていないのがミステリ)がそういう類の小説で、ひたすら隣接関係を追求する。

山荘で起きた殺人事件で、殺された博士はその手に半分にちぎれたJackのカードを握りしめていた。山のふもとでは山火事が延焼しおり、山頂にある山荘から出ていくこともできないし、外から入ってくることもできない。限られた人間しかいない制約された環境の中で起こった殺人事件の犯人は誰か。山火事が山頂に迫る中、現場に残された痕跡と山荘内にいる人間の調査から、AということはB、BということはC、Cということは・・・とメトニミックに追求していく。1933年エラリー・クイーン『シャム双生児の謎』から例を引いた。(横溝正史が貶した本作だが、ぼくは大好き)

小説というか文学の世界では、隣接関係を追求していくようなメトニミックな比喩的表現手法であるところのdetective storiesは、あまり高級な文学とはみなされない。

意味するものと意味されるものとの間に何かしらの類似性があるものの、定番の表現方法からの逸脱を模索するメタファーが、文学としてはもてはやされる。


しかし、仕事においては、メトニミーの独壇場だ。

Aの次にはBがくる、Bの次にはCがくる、Cの次には…という隣接関係を追求する思考ができるかどうかは大変重要で、まあ、強いて云えば、これに置換も加わって、はじめていわゆる“作業的な仕事”ではなく、“考える仕事”ができるということになる。

置換というのは、立場の置き換えであり、A→B→C→D→E…を検討する際に、観点を一人称的に固定するのではなく、相手の立場に立って考えることである。

将棋を例にとると、自分がこうする(A)と、相手は〇〇を考えるはずでB1かB2を検討するに違いなく、おそらくB1を選択するはずであり、そうだとすると次に自分はC1かC2あるいはC3で…のように、観点を置換させながら、隣接関係を追求していく。

自分の立場と相手の立場を交互にポジションチェンジしながら、その先、さらに先を読んでいく。

ある程度先まで読むと、「この方向に進んでいくとまずい」ことに気が付き、だとすると戻って、戻って…最初の選択で、これを選択するのは良くない、という結論になる。

実社会(仕事)では、将棋ほど複雑ではないものの、置換対象は1名とは限らない。Aさんはどう思うか、Bさんはどう感じるか、Cさんは歓迎するか…など、複数人の登場人物について、観点変更しながら、次、また次を検討する。

隣接関係の“先”にあるものが、我々にとって好ましいのか、好ましくないのかを考えて、今自分は、何を言うべきか、何をするべきかを抽出してリスト化する。

この検討の結果、すべきことと判断したことは、TO DOリストに加えられ、「好み」の問題で指摘した通り、好きか嫌いかはともかくとして「必要なこと」になる。


ある会社との打合せで、工場移転の話があり、そこで働くエンジニアは配置転換しなければならないとなった。事業計画と立地選定は完了しているので、生産設備の移転と人員の配置転換、生産プロセス構築、品質保証、ロジスティックとサプライチェーン管理などをスケジュール通りに進める必要がある。

この話をエンジニアにすると、どう思うだろう(エンジニアの立場に置換)。

エンジニアは家族のことを気にするはずだ(A→B)。

まずは奥様に相談するだろう(B→C)。

奥様はどう考えるだろうか(奥様の立場に置換)。

奥様は子供のことを気にするはずだ(C→D)。

子供はどう考えるだろうか(子供の立場に置換)。

子供はまだ小さいので、反対しない(D→E)

奥様は自分の仕事のことを気にするはずだ(C→D2)。

夫の配置転換によって今の仕事をやめなければならない(D2→E2)

奥様が仕事をやめれば現状の世帯収入が減る(E2→F)。

夫はどう考えるだろうか(夫の立場に置換)。

夫は減少分を補おうと考える(F→G)。

夫(エンジニア)は給与アップを配置転換の条件に付す可能性がある(G→H)

だとすると、単価改定(請求額の増額)を求める必要がある(H→I)。

それはいつ言うべきか。

もし移転直前になって云うと工場長はどう考えるだろう(工場長の立場に置換)。

予算が決まっていて、今更変更ができない、と言うかも知れない(I→J)。

Jから戻って、戻って、今すぐにこの場で、「人員の費用が上昇する」というべきだ、ということになり、「必要のあること」リストに追加される。

顧客に値上げの話をするのは好きか嫌いかはともかく、言わなければならない。

登場人物のperspectiveを置換させながら、メトニミックに隣接関係を追求していき、その検討の結果、「必要なこと」「実行すべきこと」がアウトプットされる。この間、時間にして5, 6秒の中で行われる。

実際にはもっと様々な検討内容(引越の費用負担は誰がするのか、賃貸契約費用負担は誰がするのか、子供の保育園は誰が探すのか、交通手段の問題はどうやって解決するのか、生活環境はどうなっているのか、配置転換対象者だけに給与増額して移動しないエンジニアは文句を言わないだろうか、そもそも配置転換を断って退職者が出た場合はどうするのか…など)があり、複雑なプロットを辿るが、A→B→C→D→E…というふうに置換させながら隣接関係を追求するのはビジネスに必要な基本的な頭の使い方である。

上に示したことは、たくさんの中のごく一部であり、実際にははるかに多くの検討対象があり、それをリアルタイムで、つまり打合せの最中に、あるいはアポイントをとる短い時間の中でさえ、こうした思考が行われているものだ。

まるで昔のカセットテープレコーダーを巻き戻して再生ボタンをがちゃっと押したみたいな、一方的で淀みない滑らかな説明はむしろ何も考えていない、仕事のできない人のやり方であって、しばらく沈黙してからやっと発話、考え込んで質問、考慮・検討してからの例示、などのように黙っている時間をはさみながらの打合せを行うのは、仕事のできる人のやり方だろう。それはあくまで自分が話す番なのに黙っているという意味であり、相手に質問を投げて自分が黙っているという意味ではない、念のため。

こういうふうに頭を使える人間は年齢や性別や国籍に関係なく戦力になる、頭が使えない人間は戦力にならない。言われたことしかできない人間は具体的な指示の実行しかできないので、使い物にならない。


何かの依頼があったとして、それはどんな目的があるのか、どんな意図があるのか、どんな問題を孕むのか、どんな成果が期待されるのか…などについて隣接関係を追求しながら考えるということができない場合は、例えば下記のようになる。

会議室に集まって打合せをするときに、みんなが同じ画面を見られると良いのでパソコンにつなげる大きなモニタを買おう、と言ったことがある。

担当者は大きなモニタを購入した。

会議室に集まってテーブルの上に各自ノートPCを並べたが、「大きなモニタ」は直接床の上に置いてあった。

「なんでモニタの台がない?」

「台を買えとは言われなかった」

後日、台を買って、モニタは台の上に乗ったが、HDMIケーブルが短くて、PCとつなぐことができない。

「なんで長いケーブルを買わなかった?」

「長いケーブルを買えとは言われなかった」

言われたことしかできない人間は、だいたいこんな感じで、仕事にならない。

仕事で成果を上げるためには「好まないけれど必要なこと」を実行することが重要であると「好みの問題」で書いたのだが、この「好まないけれど必要なこと」は誰が教えてくれるのか。

それは、自分で考えるしかない。メトニミックな思考により、隣接関係の先の先まで検討して、行きつく場所はビジネスにおいて有利なのか不利なのか評価し、リアルタイムで“今”すべきこと、「必要なこと」を“生産”し続け、「必要なこと」リストに追加し、同時にそれを“実行”するのである。

いわゆる優秀な人間は、この「必要なこと」の生産能力が高い。隣接関係を追求する検討速度が速いので、「必要なこと」リストの出力も速くて多い。

言われたことしかできない人には、このメカニズム(機構)がないので、その構築が必要だろう。

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