4歳くらいのころに、宇宙の果ての向こう側についてどう思うか、父から問われたことを覚えている。当時競馬の騎手をやっていた父の弟が増築した家の3階の畳に仰向けに寝て、窓の外を眺めているときだった。新潟県としては珍しい良く晴れた青空が窓の向こうに広がっていた。
マッチ箱にはその内側と外側があり、この家にはその内側と外側があり、地球にもその内側と外側がある。でも宇宙はどうだろうか。ここまでが宇宙です、という境界線があったとして、しかもそれがビッグバン以来の膨張によってどんどん遠ざかっていたとして、とにかくその境界線の向こう側は、何なのか。
その疑問にもちろん答えることはできなかったけれど、18年後、1991年の夏、箔下(金箔の下に塗る漆で、乾くと艶消し黒になる。艶のある黒漆の上に置く金箔は下品に見えるので、京塗では金箔の下の漆は艶消しと決まっている)の硬さをテレピン油で調整しているときに自分なりの結論を出した。
それは22歳のときで、物理学や宇宙論のいかなる専門知識もない(今もない)ときだったが、10年後に大学の理論物理学者の先生にその話をしたら、素人の話を実に楽しそうに聞いてくれたのがありがたかった。その先生は、単位取得が大変エグいので有名な人で、そんなことより(どんなこと?)結婚して子供を作って孫の顔を見せることで親孝行しなさいとぼくに言っていた人だった。理系の学者は、家族や日常より学問や研究を優先するに違いないという偏見を持っていたので、そんな言葉を云われたのは意外だったし、驚いた。
昔父から問われた宇宙の果てに関する疑問に回答しようとその後ずっと考え続けていたのだが、映画『紅の豚』が公開されるよりも少し前くらいの時期にその回答を用意した。
結局その話をする機会はなく、父は亡くなってしまった。理論物理学の先生のアドバイスも、履行できなかった。
ぼくは勉強ができなかったし、最低限の教養も、いかなる専門知識もなかった。やや社会に反発し、斜に構え、色々なことに辟易し、どうしていいか分からず、いらついていた。
漆に汚れた手は洗ってもきれいにならず、レジで会計するときは右手と左手どちらがマシか考えて、若干きれいな方の手で支払いをする、それでも
「バイクでこけはったんですかぁ?」
と京都のアパレル店員に驚かれたりする、まあだいたいそんな生活だった。
漆はどんなに頑張ってもいうことを聞かず、思い通りにいかないので、全力で格闘した。漆というものを、何とかねじ伏せたい、もしくは懐柔しておとなしくさせたい、行儀よく乾いてほしい、そういう風に思えば思うほど漆はあらぶり、コントロールを免れ、人間の意図を見透かすように思わぬ混乱と猛威を振るい、壊滅的な結果をもたらし、絶望するしかなかった。
分かる人にはわかる話で分からない人には分からない話なのだが、漆は難しいのである。そういう“生きた漆”と格闘しているころに得ることのできた着想が、境界線についてだった。
ここまでが漆でここから先は漆ではない、という境界線について、須弥壇(仏教寺院で本尊を安置する場所)の左右対称でありながら上下対称に彫られた形状の構造物、その自由曲面を重力に従って流れる漆の広がりを見ながら考えた。
ここまでが宇宙でここから先は宇宙ではないという境界線が仮にあったとして、その境界線が150億年前から光の速さで遠ざかっているとしてもそれは構わない。その宇宙の境界線と、目の前にある、ここまでが漆でここから先は漆ではないという境界線に何の違いがあるのだろうか。
そんなふうに考えると、身の回りには実にたくさんの境界線があることに気が付く。テーブルに乗ったリンゴは、テーブルとリンゴの境界線があり、リンゴと空気の境界線がある。プールにはられた水にも、水と空気の境界線(水面)があり、プールサイドのコンクリートと水の境界線もある。
身近にある境界線と宇宙の果てにある境界線は、境界線としての同じ性質を備えているはずで、それが普遍性というものだろう。
普遍性というからには、時代が異なるから性質が変わるとか、場所が異なるから成り立たないとか、そういうことにはならない。数百億年の時間と数百億光年の距離を隔てても、普遍的な性質は損なわれないに違いない。
いつでもどこでも変わらない性質があるわけで、その性質を追求すれば、宇宙の果てを実際に見に行かなくても、どうなっているかという想定はできそうだ。
途方もないはるか彼方にある(と想定された)境界線と目の前の境界線、その両者に共通する普遍的な性質は何か。
云い方を変えれば、どういうときに境界線は発生するのか。どんな条件がそろったときに境界線は成立するのか。
漆は固まるのに8時間程度かかるものだが、その固まっていく過程に無理があると縮(ちぢみ)が発生する。この「無理がある」というのは、面積当たりの漆の量が多すぎたり、硬度が均衡でなかったり、製品に置いた漆の時間経過の差が一定以上ある新しい漆と古い漆が隣り合ったりする場合などである。
テレピン油で薄め過ぎた漆は美しさを欠くが、といって粘度高めの漆を均質に塗るのは難しい。湯船に湯をはれば床から水面の高さはどこも同じになるけれど、それは水が勝手に均質になるからで、粘度が高く重い漆は放置しても均質にはならない。テレピン油で薄めれば薄めるほど水の特性に近づくが、それは塗料より薄め液を塗っているようなもので、工芸にならない。一定の粘度の漆を一定の厚みを均質に揃えて塗布する。刷毛に無理をかけず、漆に無理をかけず、製品の表面を均質に揃える。それでいて空気を動かしてはならず、埃一つ漆に乗らないように息の吐き方、吸い方、体の動かし方にまで気を配る。
できるだけ首を動かさず、目だけ動かして別方向を確認する。ほこりが漆の表面に落ちれば、その重さで漆がへこみ、まっすぐに反射されるはずの天井の蛍光灯の光が、そこだけ歪む。
漆にキイロショウジョウバエがとまると漆の粘度に足を取られ、2度と飛び立つことができないので、どこまでも歩き続けることになり、表面にはファスナーのような足跡が残って、これが回復しないまま固まる。
カブトムシが歩いても傷がつかない程度まで固まってくれるには、あと6時間か7時間か、無事に塗っても、無事に固まるまでは油断ができない。
そんな悪戦苦闘のさなか、ようやく結論を出した。
そう書いてしまうと、当たり前のようだが、なかなかたどり着けなかった。誰かの言ったことを引用するのは簡単だが、自分で考えるのは難しい。
同じ物質がどこまでも続いていくなら、そこに境界線は生まれない。どこまで行っても水が続くなら、どこまで行っても水中なだけ。しかしあるところで、水ではない別のもの(例えばプールサイドのコンクリート)に出会えば、ここまでが水でここから先はコンクリートというふうに、境界線が設定できる。
桃の表面にびっしり生えた毛羽(Fuzzy)のように、どこまでが桃でどこからが桃ではないのかが分かり難い。だからファジーは「曖昧な」という意味になったのだろうが、その毛羽(正式には、もうじ(毛じ))でさえ、桃の毛羽と取り巻く空気は異なる物質だ。どこまでも空気が連続するなら、桃との境界線は存在できず、したがって桃の存在も許されない。
何かとても当たり前のことを、言っているに過ぎないかも知れない。まるで世紀の大発見をしたような気分になっていたかも知れない。
しかし、なにしろ、別のモノが隣同士になると、境界線が発生するのだ。
これは、普遍的な性質に違いない。日本ではそうかもしれないが北米ではそうならないとか、現代ではそうだが100年前はそうではなかったとか、そんな話ではないだろう。
いつでもどこでも共通する性質なのだとすれば、“宇宙の果ての境界線にだって同じことが云える”はずだ。
これは自分史上、最大の発見だった。
異なる物質がないと境界線は生まれない。そして普遍的な性質として、その物質は必ず質量を持っている。どの程度重いか軽いかは問題ではない。質量がゼロではいことが重要だ。
物理学者の先生なら言葉の使い方に気を付けるので、これは質量というべきではなく、重さと言った方が良い、などとご意見もあるかも知れない。ぼくは素人なので、その辺アバウトな言葉を使わせていただく。
いずれにしても、このことをまとめると次のようなことになる。
境界線は異なる物質が隣り合うときに発生し、その物質は必ず質量を持つ。
ということは、
ということになる。
重さのない世界では、境界線は発生しない。
そして、「重さ」があるということは、重力があるということになり(万有引力の法則)、アインシュタイン風に云えば、空間が歪むということになる。
漆にめり込んだ埃のせいで、漆の表面に反射したまっすぐな蛍光灯の光がそこだけ歪むように。
重力は質量を持つすべてのモノの間で引き合う力であり、いつでもどこでも共通する普遍的な性質に違いない。
境界線は異なる物質との出会いにより発生、その境界線を形成する両方の物質がそれぞれに質量を有しており、重力を発する。より軽い物質はより重い物質に引き寄せられ、落下する。
もしこの宇宙に、ここまでが宇宙であるという境界線が設定できるとすれば、それは異なる物質界(こちら側の宇宙とあちら側の世界)が隣接するからであり、どちらの物質界も質量を有しており、どちらかが重く、どちらかが軽い。
より軽い物質界は、より重い物質界に向けて落下する。どんなにゆっくりだったとしても、時間を気にする必要はない。時間の制限はないのだから。
その結果どうなるか。
より軽い方の物質界は、何もない世界になる。
光を発するための材料もすべて質量を持ち、重い方の物質界に落下するので、何も燃えない。光もない。とても静かで、塵一つないクリーンな世界。
もし、我々の宇宙がより重い方の物質界であったとすれば、外側にあった物質界は我々の宇宙に落ちてきて、外の世界は何もない世界となり、我々の宇宙は質量を増し、密度が上がって収縮し、あるところで起こったビッグバンにより現在、絶賛膨張中といったところだろうか。
今は亡き父の問いは、ひとつの「次の文章」であり、ぼくはぼくなりの理解をして、「後の問い」に回答した。
1991年は、そんな夏だった。
“「漆塗り」と「宇宙の果て」” への1件のコメント
何の根拠もありませんが、僕は宇宙空間は循環しているという説が一番しっくりします。